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何か書かねばならぬん

ここ1週間、めっぽう気分が悪い。

これを孤独というのかしら。前にも後ろにも楽しいことが何にも無くって、私は狭い狭いところでクサクサしながら、今日も図書館に行くが、なぜ図書館に行かなければいけないのかいちいち理由が欲しくなる。
ああ、何にも楽しいことなんてないな、死にたいな、
脳内はこれの繰り返しである。私は死にたい意識と同居している。
まあ、死にたいなんてたやすく言葉にする奴の方が実際死なないんだ、なんて思ったりして、そんな自分を鼻で笑ったりする。でも、その余裕にうかうかと安心してはならない。今日校門付近を歩いていた時、校内を走る車が来ないか左右を確認していたら、こんなに憂鬱にまみれた自分への笑いみたいなものがポロッと溢れて、それに救われるどころか、かえってすんごく不真面目な死を妄想してしまったのである。
笑顔を浮かべながら、はは、いやあ私なんてそんなすぐ死にやしないよ、ほうらね。調子に乗って崖の端で片足バランスを披露。その三秒後には絶壁からひょいと落下、とまあ、そんな具合に。
これを自殺というのか事故というのかそれは結構悩ましい気がするが、とにかく自分の憂鬱を鼻で笑ったりすることもそんなに良いことでもないような気がした。


最近コロナに罹って、悪夢にうなされて、今までに無いような鬱陶しい寝返りを何度も打った。発熱や病気は辛いものだと知っていたけれど、実際に経験すると本当に辛い。(今原稿用紙に鉛筆で手書きをしていると仮定したら、辛い、という文字にこれでもかと圧力をかけてぶっとく仕上げただろう)私の周りの友人が病気に罹ったりしたら、大丈夫か、お大事にと言うし、小説で主人公が病気で寝込むと、辛いだろうなあと反射的に思う。しかし、こんなのとんだ薄情者の反応でしかなかった。まるで言葉や感情に想像力が伴っていないじゃないか。少し反省した。


なぜ気分がこんなに落ち込んでいるのかといえば、それはよく分からない。分かっていたら苦労しないだろ。
でもいくつか見当をつけることはできそうだ。
まず、コロナに罹ってから数日後、味覚が消滅した。発熱している時に食べたバナナが甘くて美味しかったことは覚えているから、熱が下がってから味覚が機能しなくなったのだと思う。感覚的には鼻詰まりが原因だと思われる。鼻の付け根あたりがどんよりとしている。鼻の通りが悪くて、いつもより脳に送られる酸素の総量が減っているから、憂鬱なんだろうか。なんか一理ありそうだね。
しかし、食べ物の味がしないというのは相当惨めな思いがするものだ。何を食べていても無味無臭。そんな状態が続くものだから、いちいち食べ物を選んで、購入して、食べるという一連の行為が馬鹿らしくなってくる。とりあえず何か栄養ありそうなものを胃に入れておけばいいじゃないか。そんな具合で今日も夜8時以降になると安くなるセブンの弁当を食べる。
むしゃむしゃむしゃむしゃ。なんか情けねえな。
食べている時に鼻で思いっきり吸って嗅覚を刺激し、かすかな風味がしないかと、希望を託す。
やっぱりだめだ。
ただ酸欠で頭がくらくらするだけじゃないか。

ああ、悲しいかな。

嗅覚も全然だめになっているので、シャンプーの匂いや独特なもわん、とした寮の食堂の匂いも全く感じない。嫌な匂いを感じないという点では、ある意味無敵なのかもしれないが、この世界は良い匂いがすることの方が多いと思うので、損だ。でもなんだか好きな人の匂いというものは脳に記憶されているようで、いつもは香水なんて付けないのに、珍しく派手な匂いがした時のことを覚えているし、どうにかして今もその匂いを再現することができる。しかし、その香水の匂いは父が毎朝仕事前につけていたものとかなり似ているので、なかなかうっとりとはできないのが惜しまれる。


もう一つ、落ち込んでいるという今の状態と関わりがありそうなことは、返信が待てども来ないということだろう。
私も返信が早い方の人間ではないが、大体どんなに遅くとも一日以内には返信する。自分が享受する自由はそれと同等の自由を相手にも与えること、という格言めいた言葉をごもっともだなあとノートにメモした時から、というかその前からかもしれないが、返信が一向にかえってこないことを気にすることは滅多にない。しかし、なんで返信が来ないのか、君は病気にでもなったのか、忙しいのか、事故にあったのか、私が嫌いになったのか、などなど、それだけをぐるぐると毎日考えてしまうようにさせる人と出会ってしまった。厄介だ。
私はもう長らく他人のことをこんなに考えることをしてこなかったから、動揺している。自分の安静を手に入れるためにはその人とできるだけ一緒に過ごす必要があるような気がする。しかしそれは、私から働きかける、というかなり体力が必要な方法(これを乗り越えれば強力な効き目が待っているが)を取らなければならず、それは紛れもなく、私がもっとも苦手としてきたものだ。今までは音楽をスピーカーで流しながらちゃらんぽらんに踊っていれば、なんとか自分を鎮められた。しかし今度は、私が内から外へ働きに出て、自分の平和を得なければならない!

こういう思考がもっと未熟かつ被害妄想で満ち満ちていたころ、半ば八つ当たりのような形で私はその人に自分の思いを伝えた。

……私は小さな閉め切られた部屋にひとりで住んでいて、手の届く範囲には本やCDが乱雑に積まれ、四方を囲む白い壁は脳内映写機の光に照らされ、ディスコの会場並みにカラフルなの。(これは言ってない)
私はひとりここで自分のことだけをぬくぬく考えたりすることがたまらなく好きで、定期的に外光が入らないようにカーテンを閉めて、これでもかと籠る。それが自分を落ち着かせるための唯一の手段だから。
でも、最近は君がドアを叩いて勝手に入ってきて、私に向かって、やあ、と挨拶してくるようになった。それも、毎日毎日。とっても気が散るなあと思ってるんだけど。(おい、どうしてくれるんじゃあ!)……

これを聞いてすぐ、その人は、
「僕、文学は分からない」
と言った。



ふうん。ふうん。そっか。
…って何も伝わってないじゃねえか!
ちぇ、私なりに「正しい」表現だと思ったのになあ。

そこから私はそもそもこれは文学的な表現なのか、はたまた彼のような人間に文学は必要なのだろうか、というか文学って何やねん、という一連の問いが浮かび、それが結構気に入ったので、愉快な自分の課題になったのだが、それは置いておいて、一体なんの話をしていたんだ?
ああ、憂鬱の理由か。
何だか話が横へ逸れてしまいましたね。


ノンストップで書いているのでもう結構目や脳が疲れてきた。
夕飯の時間になったので図書館からは人が減っていくなあ。
あと1時間後にはオーケストラの練習に行かねばならない。


そろそろ物体を胃に入れるために、ここら辺にしときます。
さようなら。



追伸
数日前、大学の本棚をすごい形相で凝視していたら町田康の本とばったり会った。
彼のかっけえジャケットのアルバムは聴いていたけれど、作家としての作品に触れることは今まで無かった。
図書館で一人、声を押し殺しながら腹を抱えて笑った。
いやあ、ひとりで笑う、ということはやけに贅沢で幸せなもんだな、と良い気持ちがした。
そして思った、私も「何か書かねばならぬん」、と。
それで重いパソコンを引っ張り出し、これをオートマティズムさながら一気に書いたというわけ。
もしも彼の愉快な言葉遣いが私の文章にも香ったら、それはその証拠です。









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