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澤"sweets"ミキヒコ

そう呼ばれる男のことをわたしはよく知らない。

ミュージックビデオの中で微笑むそのイケメン風味(失笑)の優男(絶句)と、わたしが「さぁくん」と呼んでいた澤瑞樹彦が同一人物であるかどうか、正直疑わしいと思っている。
だって、彼はこんなおしゃれさんな服は選べないし。こんなちゃんとした髪型、できないし。
写真の中の彼の澄ました顔と、わたしの知る顔はまったく違うように思えるのに、たとえばあるミュージックビデオのある一瞬にだけ「普段の顔」が見えたりする。「あ、これはあいつが冗談を言うときの顔だ」と思ったりする。

こうして彼について語ろうとしてはいるが、そもそもわたしは彼の身内面ができる立場ではない。友人代表ですらない。ここ数年は、年に二度、三度会うのがせいぜいだった。
わたしは幼いころに三年半の間、彼と同じ学校に在籍していただけで、その後の九年間も、友達と呼んでいいのか何なのか、奇妙な関係だった。彼について、知らないことが多すぎる。彼のことも、彼の友人のことも、わたしはなんにも知らないのかもしれない。
ただ、わたしにとって彼の存在はあまりにも重すぎたので、こうしてまとめて吐き出そうと思ったのだ。これは何の目的もなく、誰に読んでほしいわけでもなく、ただわたしが、彼の不在に耐えられず、ただとりとめもなくしゃべりたいだけの、後悔や怒りや悲しみをどこかにぶつけた気になりたいだけの、そんな文章だ。
それは友人を悼む態度としてふさわしくはないと思う。わたしはこの文章によって誰かを不快にさせたくはないので、亡くなった人についてあれこれ言う文章を好まない方は、この先を見ないようにお願いいたします。

友人が死んだ。それがたまたま、ふぇのたすとしてデビューしたばかりのその男だっただけだ。

彼と知り合ったのはわたしが11歳、彼が12歳の頃だった。彼の地元である小金井市の小学校にわたしが転入し、その後公立中学に進学したのちも、わたしと彼は特に仲が良いとは言えなかった。というか端的に言って悪かった。嫌われていた。
それがなぜ仲良くなったのかはっきりとは覚えていないが、中学二年生のときには、連絡網を回すついでに長電話をしていた気がするし、中学三年生になると特に仲良くなり、クラスの女子に「澤くんと付き合ってるんでしょ?」などと囃し立てられ、そのすさまじい嫌悪感によって教室で話せなくなった記憶がある。
わたしも彼もお菓子作りが好きだったしな。あるいはわたしたちは、スクールカーストの同じぐらいのところにいたのかな。何にせよ、中学生が仲良くなるきっかけなんてきっとくだらないものであっただろう。

当時の澤瑞樹彦がどんな男だったかと聞かれれば、わたしは「嫌なやつ」と答えると思う。すぐ怒るし、自分勝手で、怖いやつだった。ツイッターで「ミキヒコ」で検索すると「明るくて」「優しい」彼を悼む言葉が山のように出てくるのだが、当時を知るわたしは反射的に否定してしまいそうになる。
わりと嫌なやつだった。バレンタインに作ったお菓子を批評してくるし。ホワイトデーにお返しくれないし、指摘したらしたで手作りお菓子の詰め合わせをジップロックに入れて持ってくるし。美味しいし。
怖いものが駄目で、夏の夜の小金井公園を満たすひぐらしの鳴き声すら怖がるチキン野郎で(当時は「ひぐらしのなく頃に」の全盛期である)。何度言ってもひどい寝癖のまま登校してくるようなやつだった。わたしと正反対のふわふわ、くしゃくしゃの猫っ毛が妬ましかった。
彼はわたしの好きなタイプにかすりもしなかったし、共通項も少ない。今になっても「よくあいつと話が合うなぁ」と自分で感心するくらいだ。だからこそ、この先何があろうとも恋愛関係にならないだろうという安心感があった。

高校に進学したのちのある時期から、彼はわたしのメールにだけ返事を返さなくなった。
中学時代の友人同士で集まろうと思っても、彼が連絡をくれないので、わたしが幹事を務めると企画が立ち消えになる。あーたさんに頼んでメールを出してもらうと、すぐ返事が来る。いざ会ってみれば、今までと変わらず話せる。そんな時期があった。
仲が良いと思っていた人から無視され続けるのは控えめに言っても地獄だった。途中で多少の改善は見られたものの、この地獄は二十歳まで続いた。疑心暗鬼に陥ったわたしは無視されるたびに怯えた。今になって思えば、それはわたしの性格に関する問題を深刻化させる一因になっていた可能性もある。
わたしはもはや自分の力でこの問題に立ち向かうことができず、あーたさんに怒ってもらうという解決方法を選んだ。高校時代から成人するまで続いた長い長い恨みを、あろうことか彼は「ごめんごめん!わざとじゃないよ!全然催促していいから」という実に適当な返答で断ち切った。
本当に悪意はない、ただ無神経で、ばか。
あいつはそれだけなのだ。
でも、それでわたしは、彼と普通に連絡が取れるようになった。メールの返事が来なくても、催促するということを覚え、「申し訳なさ(´・_・`)」という返事が来るようになった。
こんな態度を取られても友達でいられるのはわたしくらいだという歪んだ誇りがあった。ぞんざいに扱えるということが彼なりの親しみの証拠であると、わたしはずっと思いたがっている。
実際に彼がどう思っていたかは分からないが、わたしにとって、それは特別な関係だった。対人関係の構築に問題を持つわたしが、自分から押して押して押しまくって、こだわり続けて、しがみつき続けて、それが成功した、唯一の人間関係だった。

彼の音楽についても、残念ながらわたしはあまり詳しくない。
帰省のたびに彼を誘って、どこかの喫茶店で、あるいは吉祥寺を歩きながら、「太鼓の達人に曲が入る」だとか、「メジャーデビューに向けて動いてる」だとか、きりみちゃんがどうとか、お蔵入りになった企画とか、裏話とか……そんな話を聞いてはいたが、基本的に音楽の世界に詳しくないわたしにとってはよくわからない話が大半だった。何だかけっこう有名なアーティストと対バンしたとか、ゆっふぃーとか言われても、薄い反応しか返せなかった。
初めて行ったライブは高校一年生のときだったと思う。あの澤がバンドを始めたというのがもうおかしくて面白くて大いに笑った気がする。その次が高校を卒業して組んだバンド、確かセカンドパズルコードという名前だった。ヤマモトショウとはそのときからの付き合いのはずだ。
phenomenon時代はわたしが休学中で東京に住んでいたこともあり、わりかし足繁くライブに通った。彼が自宅に忘れてきたアンコール用のTシャツを彼の家に取りに行ってから会場に向かったこともある。その後も夏と冬の帰省のたびに、一度くらいはライブに行くよう努めた。「偉くなったらゲストで入れろよ」なんて冗談でごまかしながら、盛り上がることもなく真顔でライブを見つめ、彼らの出番が終わると差し入れを渡して帰っていく卑屈な観客を、わたしは数年にわたって続けてきた。傍目に見ても誰得としか言いようのない存在だと思う。そのころにはわたしは人とうまく関係を築くことが全くできなくなっており、チケット代と差し入れ代を払って友人関係を保っているような気分だったのかもしれない。
それを彼がどう思っていたのかは分からない。当時のわたしの気持ちもよく分からないけれど、たぶん、わたしは彼に好かれたかった、友達だと思われたかったのだと思う。それが何故かも分からない。

そんなに足繁くライブに通っていながら、わたしはステージの上の彼を認めることができなかった。あれは成人前だったと思うが、あーたさんと一緒に新宿ロフトでのライブを見に行ったとき(ドラムが舞台奥じゃなくて、斜めっぽく設置してあったとき。出番は一番最初。「彼は着メロ」の時代。「ぼん」という曲。誰か覚えているだろうか)、演奏中ずっと彼が幸せそうな、本当に最高に幸せそうな、非現実的なほどきらきらした笑顔をしているので、とても直視できなかった。
恥ずかしいような、くやしいような、眩しいような、そんな気持ちが邪魔をして、わたしはステージ上のあいつを見つめることができなかった。普段のあいつと、そのきらきらした人を同一人物だと認めることは、なんとなく悔しかった。
眩しいものは目に痛い。ステージの上のあいつを直視してしまうと、いつも涙が溢れるのが癪に障った。

わたしは彼と自分の関係を友達だと言うことにどうもためらいがあった。それは中学時代の嫌悪感の名残かもしれないし、無視時代の恨みの残滓かもしれない。中学の同級生に再会すると「えっwまだ澤くんと仲良いのw」なんて言われて、確かに自分でも不思議だと思っていた。
思い返してみれば中学時代は毎週のようにカラオケに行ったり、小金井公園で遊んだり……そういえば卒業式の日もあいつと会っていた気がする……、完全に仲の良い友達としか思えない付き合いをしていたのだけれど、当時のわたしたちは幼くてばかだったので、しょうもない人間関係のトラブルが起こったりして(十年経ってもその記憶の蓋を開ける勇気が起きない)、わたしと彼の間も常に友好的だったわけではないから、わたしの中で彼はずっと「元同級生っぽい何か」であった。
寒い寒いと思っていたらいつのまにか寒さが和らいでいて陽射しのあたたかさに春を感じるみたいに、「ああ、なんかやっとふつうの友達になれた気がする」と気付いたときには、わたしたちは22歳になっていた。本人にそう言ったわけではないけれど、友達になるまで十年かかったと思うと笑えた。
余計な気遣いもわだかまりもなく、昔の確執もそのままのみこんで、穏やかで落ち着いた関係になれたと、その頃やっと実感できた。性格も、嗜好も、進んだ道も、何もかも違うけれど、小さい頃から続けてきた関係がやっと実を結んだと、そんなふうに感じた。お互いの欠点も、もう自分のものみたいに馴染みきっている。傷をたくさんつけながら使い込んでつやつやになった革製品のように、わたしは彼や、あーたさんや、その周りの輪が愛おしかった。
こんなに安心できる関係はないと思った。十年たってやっと、彼のことを「幼馴染」と呼びたくなった。長い時間をかけて熟成してきた関係は、十年後、二十年後には、もっともっと美味しくなるだろうと思った。
わたしに初めて彼氏ができたとき、彼は「まさかお前に彼氏ができるなんてな」と笑い飛ばし、会ってみたいと言ってくれた。いつか会ってほしいと心の底から思った。きっと彼は彼なりにわたしの社会不適合者っぷりに気づいていて、心配してくれていたのだと思う(そして、その心配は見事的中している)。
わたしは彼に「お前が尊敬できて好きになった人がたまたま異性で、それでその人もお前のこと好きになって、そうやって一緒にいられる相手ができたらいいね」と言った。今は特に恋愛したいと思っていないことも知っていたから、無理に彼女作らなくてもいい、とにかく幸せになってほしいと思った。いつか誰か、こんなばか野郎と敬い合い、支え合える人が現れてほしいと願った。万が一、そんな人が現れてくれなくても、わたしだけはいつまでも彼と仲良くしていようと決めていた。

最後に会ったのは今年の2月。わたしの帰省に合わせて、あーたさんと3人で新宿で待ち合わせた。
どうかすると番号もアドレスもろくに登録していないような、連絡がつくんだかつかないんだか分からない、数か月に一回会うのがやっとで、それでも、ひとたび会えば昨日の続きのように話ができる。そんな関係は、世間一般で言うところの「親友」に近いのかもしれない。
カレー屋さんの列に並びながら、メジャーデビューすることを報告したあいつに対して、わたしは「あーあ、そんな大道芸人になっちゃって」と毒づいた。あいつは「ほんとだよ」と笑った。帰り道、おんなのこきらいの営業をされて、森川葵ちゃんの話をして、ルミネエストまで案内してもらって、手を振って別れた。彼はわたしの苦手なことをよくわかっているから、解散はいつも呆気なくさらっとしている。

ツイッターで「一時帰国決まったから遊ぼうよ!」というDMを彼とあーたさんに送ったのは、五月八日の未明のことだった【追記】と思ったらとんだ勘違いで、五月一日だった。その後、五月八日にあーたさんが「さわくん!?」と連絡してくれるまで一切の反応はなかった。てっきりいつもの彼の筆不精だと思っていた。しかもわたしはあーたさんのDMの意味も分からなかった。【追記終】
ふぇのたすのファンではないという姿勢を貫き続けているためふぇのたすの情報を数か月に一度しか仕入れていないわたしが彼の訃報を知ったのは五月十日の朝のことで、ツイッターにログインできない日が続いたのち久々にVPNが繋がったと思ったら、あーたさんがわたしを探していた。そしてわたしは茫然としたまま荷造りを終え、彼の葬儀の翌日に一時帰国した。
誰にも会いたくなかった。あーたさん以外の旧友も、わたしのことを心配してくれていたそうだが、あーたさん以外には会いたくなかった。彼らに会ったら、彼の不在をもっと実感させられそうで嫌だった。あーたさんは慰めるのでも、励ますのでもなく、ただ一緒にご飯を食べて、いろんな話をしてくれた。こいつはそういうやつだ。だからわたしのようなクズや、あいつのようなばかと、ずっと仲良くできたのかもしれない。彼女の知る彼と、わたしの知る彼は、一緒だったと思う。
何年か前に、彼の高校時代の友人が亡くなったことがあるのを思い出した。あのとき、彼はどんなふうに毎日をやり過ごしたのだろう。こんな大きな欠落を、どうやって耐え抜いたのだろう。

留学生の就職活動は慌ただしい。一時帰国を終えて卒業を待つばかりと思っていたが、ふたたび急な一時帰国が入った。それがちょうど「お別れ会」の日に重なっていた。
行くつもりは毛頭なかったのだけれど、その日、わたしは新宿に用があって、会場はすぐそこだった。
なんだか呼ばれている気がした。そうでなくとも、今日を逃したらわたしはもう二度とヤマモトショウに会うことはないと思った。19歳か20歳か知らないけれど、そのころから彼の演奏する音楽を作り続けている人に、一言、全然そんな立場ではないけれど、それでもお礼が言いたいと思った。
そんなことを一所懸命考えながら自分を奮い立たせて会場へ向かい、列をなす人々に言葉を失った。彼らはわたしとは違う。彼らはふぇのたすや、澤"sweets"ミキヒコに対する愛だけを頼りにこの場所に来ている。これが彼が築いたものの大きさなのだ。そう思うと脚が震えた。涙が止まらなくて、結局ヤマモトショウの前でもまともに喋れなくて、かなり恥ずかしかった。

わたしはどこまでいっても「澤瑞樹彦」の知り合いで、だからphenomenonやふぇのたすのファンにはなれなかった。最初から最後まで、わたしはステージ上のその人を愛することができなかった。
でも、わたしの知らない彼は、こんなに多くの、知らない人や知っている人たちに愛されている。
ライブ会場にいたのは、わたしやあーたさんの澤じゃない、みんなのミキヒコだった。
音楽で、愛するという、わたしが永遠に築けない関係を、彼とたくさんの人が築いている。彼はそういうものをつくってきた。
それはなんだか、悔しくて、怖くて、悲しかった。わたしも、そんな関係が築ければよかった。その音楽を愛することができればよかった。
(余談……この動画初めて見たんだけど、こんなハイテンションなあいつってなんかすごい恥ずかしい。)

わたしは彼や、彼のご家族や、旧友たちに、挨拶も何もできていない。彼の写真の前で手を合わせることも、その現実に向き合うことすら、まだできない。わたしは彼の死をまだ拒否している。
そうしてわたしはまた北京に戻ってきた。

会わない、連絡をとらない時期が長すぎたせいで、「さぁくんに会いたい」と思うことはあまりないのに、それでも彼がいないことに耐えられないというのは、考えてみれば不思議なものだ。
果たしていない約束だって、たくさん残っている。
ゴスペラーズのライブに行くっていったじゃん。毎年一緒に昭和記念公園の花火大会に行ってたじゃん。CD買ったらサインしてくれるって言ったじゃん。誕生日にあげたかったアクセサリーがあるんだよ。今まではわたしが帰省してるときしか会えなかったけど、卒業したらやっとたくさん遊べるようになるって思ってたのにさあ。
編み物を始めたって言ったじゃん。なんか編んでプレゼントしたいと思ってたんだよ。最後に会ったときに報告したことあるでしょう、あれにも続報があるんだ。大事な話だよ。それとね、わたしメンタルにいろんな問題があったんだよ。やっといろんな謎が解けたの。今更気づくなんて笑えるでしょう。今病院に行ってて、カウンセラーがとても良い人ですっごく楽しいの。
こんな話をきいたらお前はきっと笑ってくれるでしょう。
これからたくさん、いろんなことがしたかったのに、いろんな話がしたかったのに、どうしてそんな約束もぜんぶ守ってくれないんだよ。
これからじゃん。有名になるのも、幸せになるのも、わたしに高いご飯を奢るのも、全部これからってところだったじゃん。
それなのに、わたしを置いて死ぬなんて!
きっとこの感情の大部分は怒りなのだ。わたしは彼の死に憤りを覚えている。彼がいないことが許せないだけの駄々っ子が、「天国で見守ってる?おばけになっても好きだよ?そんなのやだやだ、ここにいてよ!」と駄々をこねているだけなのだ。

日本にいると、そこここに散らばった澤瑞樹彦の小さな欠片に気づく。
ヨドバシカメラの店先で流れる「いい感じっいい感じっ」という曲に耳を傾けるまでもない。今まで思い出しもしなかったような小さな破片がわたしを刺す。どんな小さなことも彼の記憶に繋げることができる。わたしの生きてきた道には彼の破片が無数に散らばっていて、不用意に振り返ればもう刺さって抜けなくなる。
わたしと彼はもっぱら吉祥寺で会っていたので、街角のあらゆる場所で、いろんな思い出が、価値もないような小さな破片が、走馬灯のようにわたしを刺す。
あいつと一緒に歩いた道。大雪の翌日の井の頭公園。……私の以前のバイト先。店長がアイスを奢ってくれてあいつは大喜びで……あいつの大好きなカフェは私が教えてやったんだよ。紅茶のパフェ。私とあーたさんがいるところにあいつが来て、金欠だからって飲み物だけ頼んだのに、わたしたちの食べてるデザートを見てそわそわしだして結局メニューもらって。服をどこで買うかという話……あのとき、みこちゃんの誕生日が近いのでプレゼントを考えていると言っていた。……母親が買ったアロハシャツを着用して渋谷まで来ちゃう男。……吉祥寺の南口のバサラブックス……赤い髪の毛……色が抜けて、ピンク色になっていた。パーマをかけていた頃もあった……あいつはいつも同じライダースを着ている。大雨の日、逆にビーチサンダルで待ち合わせ場所に来た。立川の居酒屋……私は気軽に人を誘えない。でもあいつは、私から言わないと、誘ってくれないから、なんだかんだ帰国のたびに声をかけていた。花火大会の日にヤマモトショウから電話がかかってきて……コールドストーンのアイス。……珍しくあいつから私に連絡を取ってくれたこと。日中情勢を心配して、わざわざ連絡をくれた時。太鼓の達人。……アニメの話。化物語、いぬぼく、野崎くん……こいつが一生うだつの上がらないバンドマンやってたらどうしよう。わたしが高給取りになって、お前一人くらい養ってやろうって思ってたこともあるんだよ。とても言えないけどさ。……校外学習の日、あいつはお金を忘れてきて私が貸してあげたんだっけ。……レピキュリアンのケーキ。一度だけみんなであいつの家に泊まったとき、あいつ「俺は上に行くよ!」という決め台詞を残して平然と自分の部屋で寝やがって。私はリビングのソファーで寝た。寒かったなあ。

十三年は長い。彼の人生の半分よりも長い。
わたしの人生には、数えきれないほどの欠片が散らばっている。それはあまりにも細かくて、拾い集めて誰かに見せようと思っても、粉々すぎて何が何だかわからないんだろう。
ひとりで持つには重すぎるから吐き出したいのに、拾い上げることすらままならない。わたしの頭の中は、そんな細かすぎる破片にまみれている。
こんな破片だらけの道をわたしに歩けっていうのかな。
失礼で、冷たくて、ほんと最低で、こんなに大切なのに。
こんなにたくさん散らかしておいて、黙っていなくなっちゃうなんて、お前は最後まで無神経なやつだよな。
ほんと、いいとこなんてひとつもなかったよな。

最悪将来こいつのこと養ってやろうなんて思うのは、きっとただの友達に対する感情ではないのだろう。
それはもしかすると、愛の告白よりずっと強い感情かもしれない。
いくら考えても好きなとこなんて全然出てこないけど、わたしはお前のことが大好きだったんだ。十年前の気の迷いよりもずっと強く。友情も愛情も飛び越えて、なんだかわからないけど、たぶんわたしは澤瑞樹彦が好きだった。
なんで気づかなかったんだろう。っていうか、お前は知ってた?
言えなくなるくらいなら、ちゃんと言っとけばよかったね。だって次に言えるのはいつになるんだろう。

7月14日は、澤瑞樹彦の25歳の誕生日。
学部の卒業式は10日だったんだけど、今日は全校の卒業式があるんだ。
お前が笑い、驚き、応援し、心配し、支えてくれた、この留学生活が終わって、わたしはお前のいない東京に帰る。
本帰国したら、あるいは就活がひと段落したら、さすがに一回会いに行くね。遅くなってごめんね。
ねえねえ、わたし就活してるんだよ。笑っちゃうよね。
わたしは死ぬまで死んだお前の歳を数えながら、お前のいない世界で、お前の破片で全身ズタズタになっても生きていくつもりでいるんだ。いちおう、目標もあるんだ。お前に教えたかった、応援してほしかった目標。
だって、今わたしが後を追って死んだところで意味はないでしょう?それくらいはわかっている。その程度には冷静だよ。
でも、やっぱり、わたしの中のどこかが、お前と一緒に死んでしまった。

いつもお前のことを考えているわけではないよ。毎日泣いてるわけでもない。ミュージックビデオは、なんとか見られるようになった。お前がもういないことを、認めているわけでも、受け入れているわけでもないけど。
なんか、まだそういうのよくわかんないんだ。お前の分も強く生きようとかも、やっぱり思えない。お前の死を、まだ、生きるための力に変えられない。この春は、悲しいことがありすぎて、もう一歩も動けないや。
忘れない。乗り越えない。気持ちの区切りなんかいらない。ふぇのたすが歩き出しても、わたしは当分、どこにも行けないと思う。
それでも、とりあえず生きていこうって思ってるよ。また会える日までね。

今度はちゃんと大好きだって言おうと思うの。そんときは笑わないでよ。


【追記】
この文章を読んだあーたさんから「正直、あなたと澤くんは結婚するんじゃないかと思っていた」と言われた。認めるのはなんだか癪だが、わたしも似たようなことを思っていたことがある。本文中では養うだのなんだのと婉曲表現を使用したが、まあ、そのあたりにもわたしの過去の考えが滲み出ている。
でも彼の性格が好きではないのも本心なのだ。あんな自分勝手なやつ!
実際、お互い一番勘違いしていた中学時代にも、わたしたちは手も繋いだことがないのだ。それでも、彼のことを「わたしのさぁくん」と言いたいような気持ちを抱えて生きてきた。
そんなことを総括して考えると、彼はわたしの家族に近い存在だったのかもしれない。好きではないが絶対に切れないつながりは、兄、という言葉が割と近いような気がする。

今度は結婚しようね、なんて口が裂けても言いたくないが、今度はいっしょにおじいちゃんおばあちゃんになろうね、くらいなら言えるかもしれない。
一方通行だったかもしれないが、そんな関係を築いてきた。
それがたまたま彼だっただけだ。

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