しゃぼん玉

息の保存 と 未来の博物館

前回の投稿 息 と 美術作品 で、「自分の息」そのものが、いわゆる「美術作品」と呼ばれるものになる可能性があるのでは、という(図々しい)試みをした作品について書きました。

言い換えると、吹きガラスという技法を用いることで、自分の息が「美術館」に収蔵されるような代物になるんじゃないか、という純度が高いんだか低いんだかわからないような妄想を出発点にしています。
それを経て、今回は、いま取り組んでいる作品のことを書きたいと思います。


なんと、「美術館」を通り越して「博物館」を見据えております(!)。


ガラスは保存容器として大変優れた特徴を持っているのですが、割れたらおしまい。そんなどうしようもないジレンマについて考えていると、いつかはわからないけれど、作品が割れる未来について思うようになりました。

自分の「息」が、また「空気」にもどる瞬間です。

具体的には、一息を封入したガラスの球を一日にひとつ制作する、ということを一定期間続け、その日付をガラスに小さく彫り込みます。最終的には、長い時間の旅の果てに割れるしゃぼん玉のようなイメージのインスタレーションとして、作品化しようと思っています。

これまで、作品が残ることを意識したことも永遠に残したい、と思ったこともありませんでしたが、紀元前につくられたガラスが現在も残っているという事実や、それらのガラスを目の当たりにした際に、あまりの変わらなさ(技術や考えも含めて)に驚き、違和感なく古代の人と対話できるんじゃないかという感覚になったときに、これは未来の人が自分の作品を見たときにも起こりうることなんだ、と認識を新たにしました。

わたしの息が封入されたガラスも数千年の時を超えて存在し続ける可能性があるということ、それが割れてその時代の「空気」へもどるということ。どれも自分のキャパをはるかに超えてロマンチックでダイナミック、かつ、どうしようもなく自意識過剰で、想像するとクラクラします。


[ 制作の様子 ]
主に理化学用の実験器具などを作る際に用いる、酸素バーナーという技法。レンジでチン、直火もOKなパイレックスなどの耐熱ガラスを溶かすことのできる、高温のバーナーです。

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