痰壺迷想録(5/938)
何を呪っていいのか分からないくらいに何もかもを呪っている。
自己パロディのパロディを中途半端に演じることしか出来ない、という「自覚」はつねにある。
「弱い者いじめ」が快楽でなかったことなどかつてなかった。「弱い者いじめ」の歴史に比べれば「強い者いじめ」の歴史はまだ浅い。
「書くものは暴力的なのに会ってみると優しくていい人」を素直に演じるためには相当の愚鈍さが必要だろう。
どんな自称エゴイストよりも「善良な市民」面した連中のほうがはるかに巨大なエゴイズムを生きている。
軽薄にクソマジメを演じるのは野暮だが、クソマジメに軽薄を演じるのは野暮ではない。
「自己投資」という言葉を躊躇なく使える人間はことごとく脳内処刑している。
あらゆる「やさしさ」は他人への無関心に裏打ちされている必要がある。
不幸自意識の強い人間はなべて自分よりも不幸でなさそうな人間を探しては、「私よりは恵まれているくせに」と責めたてる。
凡庸の壁。
世間の欺瞞と人々の醜悪さを自分だけは見抜いているぞ、という洞察力だけで自尊心を支えている人たち。
「ほんらい精神科へ行くべきなのは抑鬱の人々なのではなく抑鬱でない人々なのだ」ということを月に一度は思い出すこと。
「幸福は幻想だが、苦痛は現実だ」ということを日に一度は思い出すこと。
出生率低下は慶賀すべきことだと語る言論人がほとんど見当たらないのはひじょうに不健全なことである。
本を読まないことを自慢げ語る「知識人」。
「包茎」に真性と仮性の区別があるように、「厭世」にも真性と仮性の区別がある。真性の厭世者はどんな世においても極めて少数であり、「人間の歴史」が何千年も続いているのもそのためだ。
ニーチェ。弱者であるがゆえにこそ「弱者の卑劣な自己欺瞞」を洞察し、それを剔抉することにマゾ的快楽を見出してしまった男。
「倫理」や「正義」と言うときに必ず口ごもること。知性とは口ごもることでもある。
不合理ゆえに我語る。
「子供」には「親」の凡俗な見通しを裏切り続ける「義務」がある。「這えば立て立てば歩けの親心」を意識的執拗に裏切り続ける「義務」がある。でなければその「親」は死ぬまで「共同体の曖昧性」を脱することが出来ないだろう。「実存」を奪還することが出来ないだろう。
「成長」を拒否すること。「完全性」はそこにしかありえない。
愚劣性のハーモニー。せめてポリフォニーであってくれれば。
「悩み」はけっして語られることはない。「自覚」されることさえない。
日記のおいてつねに最も肝心なのは「何が書かれていないか」ということ。
人を熱心に褒めたがる人間に注意すること。彼彼女は熱心に人を罵る人間でもあるから。
「見慣れたもの」のすべてに吐き気を催すこと。
「楽園」にはオナニストしかいない。
労働者になるくらいなら犯罪者になったほうがましだと思わない日はなかった。
生きるだけでなく死ぬのにさえ苦痛を感じなければならないこの遅れた生き物。
すべての人間を自殺に追い込む思想。
地球を粉々にする隕石のような思想。
既存宇宙を転覆させる思想。
深海魚に地上の哺乳類と同じ気圧のなかで生活しろというのがそもそも無理な話。
苦痛を現金化できれば、と思わない日はない。
子作りしないだけで聖人。
このただならぬ不安と不快。「生」そのもの。
生存罪。
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