「詩と暮らす」#シロクマ文芸部
「詩と暮らすの」
「何、馬鹿なこと言ってるんだよ」
彩は意味不明なことを口走ると小さなバッグに必要な物だけを詰め込んで俺の部屋から出て行った。
「悪いけど、後の物は全部捨てて」
「前の男の所へ帰るのか?」
「違うって言ってるでしょ、私が好きなのは和樹だけ」
「じゃあ、何故…」
突然告げられた別れだった。
一人分広くなったソファに足を伸ばして、彩のことを思い出していた。
愛していた、だけど…
俺は言葉に出してきちんとそれを伝えていただろうか。伝わっていただろうか。
『詩と暮らす』
あの言葉は何だったのだろう?
彩が詩を書いていたなんて知らなかった。詩を書いていたのは売れない路上ミュージシャンの俺の方だ。歌だけでは喰っていけないから俺の生活はバイトで明け暮れていた。
あの日、路上ライブの最中に降り出した雨のせいで演奏が途中で打ち切りになった。百均で買った安物の傘をさして、いつもの歩道橋でバンドの゙仲間達と別れた。
「じゃあ、また来週な〜」
「お〜!」
その歩道橋の下だった。皮ジャンにミニスカートを履いた素足の娘がずぶ濡れになって震えていた。
「どうしたの?傘は?靴は?」
漆黒のボブカットの頭が何度も横に振られた。
事情は話せないと言う意味なんだろう。
「傘、あげるよ。俺、走って帰るから」
俺はギターのケースを着ていたスカジャンで包んで、安物の傘をその娘に差し掛けた。
「ダメ!」
娘は自分よりも俺よりも傘をギターの上に差した。
直線に切り揃えた前髪の下の切れ長の目がイタズラっぽく光って俺を睨んだ。
「大切な物は守らなきゃダメ!」
それが彩との出会いだった。
駅前のドンキで季節外れの安いサンダルを買って履かせると彩は嬉しそうに笑ってクルクルと飛び回った。
「ありがとう、一生大切にするからね」
「オーバーだな~」
その晩から彩は俺の部屋に転がり込んできた。
不思議な女だった。
彩は自分が甘えたい時はずっと俺の傍から離れなかったが、一旦機嫌を損ねると何日も傍に寄って来なかった。ただ部屋に居て窓の側で日向ぼっこをしているような女だった。
夜になると身体を丸めて俺にすり寄ってきた。
「暖かいかい?」
と尋ねると
「うん!だーいすき!」
俺を好きなのか暖かいのが好きなのか、分からない返事を繰り返した。
そんな彩が俺は好きだった。いや、愛していた。
日曜日になると公園や駅前で開く俺達のバンドのライブに彩は付いて来た。バンドの仲間達は口々に彩のルックスを誉めてくれた。
「和樹、可愛い彼女摑まえたな〜」
「何処で拾って来たんだよ?」
「歩道橋の下さ」
「ウソつけ(笑)」
本当の事を言っても誰も信じてはくれなかった。
そんな生活が三ヶ月程続いてから、突然切り出された彩からの別れの言葉が『詩と暮らすの』だった。
ぼーっとしていた俺をスマホの振動が現実へ引き戻した。
そう言えば、彩は今時スマホさえ持っていなかったな…
スマホにはラインでバンド仲間からの路上ライブの誘いが入っていた。
いつまでもこうしていても仕方ないか…
フラリと野良猫のように現れた女がまたフラリと出て行っただけだ、それだけだ。
自分自身に言い聞かせると俺はギターを持って立ち上がっていた。
その日のライブは公園だった。いつもよりも大勢の観客が立ち止まり、ベンチに座って聞いてくれた。ラストに俺は彩への想いを込めて書いた詩を歌った。彩が一番好きだった詩だ。いつも、この曲になるとあの辺りで彩が……
えっ
歌いながら、俺は彩の視線を感じていた。
何処だよ?彩、何処で俺を見てる?
その時、一匹の痩せた黒猫がベンチの上からピョンと飛び降りる姿が見えた。
なんだ、野良猫か。
気にも止めずにその日のライブは終了した。
「じゃあ、お疲れ様」
「おい!和樹、失恋したからって元気出せよ」
「ああ」
いつもの仲間と別れる歩道橋の下、彩と出会った場所にまた俺は一人で立っていた。
ミャー
突然、俺の耳にか細い猫の鳴き声が届いた。
「あっ」
さっきの痩せた黒猫が其処に横たわっていた。
「どうした?」
ハァハァと荒い息遣いの猫は俺の眼をじっと見つめていた。
「何か食べ物を」
ミャー
傍に居てと言うようにもう一度、黒猫が啼いた。
「あっ!ウソだろ」
猫が横たわって居る身体の下に、あの日ドン・キホーテで買った安いサンダルが敷いてあった。まるで誰にも渡さないというように全身で守るように。
『一生、大切にするからね』
「彩?お前、彩なのかー?」
『一人で逝くつもりだったのに、やっぱりもう一度逢いたくなっちゃった。私は和樹がバイトをしていた店の裏に捨てられてた仔猫よ。あなただけだった毎日、残飯を運んでくれたのは。ねぇ、私、大人になったでしょう?みんな和樹のおかげよ。でも今度こそ、もうダメみたい。最期に一つだけ、大切なものは守らなくちゃダメよ。和樹が大切なのは詩でしょう?私はこれから和樹の詩の中で暮らしていくの。ありがとう、ありがとう、和樹』
猫の呟きは和樹には届かなかった。
でも和樹は大切そうに猫の骸を抱き上げた。
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