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三年坂 Web

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三年坂は京都.清水寺へ向かう有名な通りのひとつ その三年坂とその周辺の土地には歴史やいわれがいっぱいあります! このマガジンでは、三年坂のポイントを紹介していきます!
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三年坂ってなんだろう?

 『三年坂』は、八坂の塔から清水寺へと向かう参道の途中にある約100mの石段の坂とその周辺の地域の事です。  三年坂の周辺のこの地域は京都を代表する観光地として多くの人々に親しまれています。  三年坂は平安時代から名前が知られていて、いろんな歴史やいわれがこの地で今も語り継がれているんですよ。  その中に、この坂で転んだ人は三年で死んじゃうっていう話があります。  その時、魔除けとして有名なのが三年坂の瓢箪(ひょうたん)です。  転んでも瓢箪が悪い魂を吸い取ってくれるため

14人しか達成していない⁉千日回峰行

三年坂は、昔から高台寺から清水寺への阿闍梨(あじゃり)参拝する経路にされてきました。 阿闍梨は、修行を重ねることで称号がランクアップ。 三年坂に訪れる阿闍梨さんは比叡山天台宗で行われる「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)」という修行中の人です。千日回峰行を成し遂げると「大阿闍梨(だいあじゃり)」という称号を授かることができます。 千日回峰行は7年もかけて行う修行で戦後に14人しか成功していない、厳しい修行です。 もし出会えたらかなり幸運なことです。阿闍梨さんが最後まで修

阿闍梨さんってなんだろう?

三年坂は、昔から高台寺から清水寺への阿闍梨(あじゃり)参拝する経路にされてきました。そのため人々は参拝する阿闍梨に尊敬と親しみを込めて「阿闍梨さん」と呼びました。 阿闍梨さんって実際、何でしょうか。 簡単に説明すると、「阿闍梨」とは今の日本では「密教(天台宗や真言宗)を学んだ僧侶」全般を指す称号のことなんですよ。 阿闍梨になるにはすごく厳しい修行が必要になるんです! 三年坂で見られる阿闍梨さんは一体どんなことをしているのでしょう? 次の記事ではその修行について少し触れてい

三年坂はあの世との境界線?

 時は平安時代、三年坂は「鳥辺野(とりべの)」という地域の北のはずれの土地にあたりました。 鳥辺野というのは、鴨川から京都の葬送地として有名です。「坂」というのは「境界」であるということから、この地はあの世とこの世の境界とされていたようです。  そういえばお隣の六原地域にも、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)があったり子育て飴があったりしますね。  こうしてみると三年坂というのは、清水寺の参拝の道をつなぐだけではなく、あの世とこの世をつないだり、妖怪と人間をつないだりしてい

妖怪「ぬえ」の住む土地、三年坂

 この三年坂地域には、鵺という妖怪が埋葬されたといいます。  平安時代の「源平盛衰記」という本によるとその鵺というのは、背が虎で足が狸、尾は狐などともいわれる、得体のしれない妖怪とされています。  平安時代の末期、平清盛が清水寺に参籠していたときのこと。その深夜に、鵺と思われる怪鳥が現われました。この鵺を清盛が捕獲して葬ったのが、三年坂の途中に存在していた毛朱一竹塚(もうしゅいっちくづか)という塚(土を盛ったお墓)だといわれています。

カエルの祟り?運動会はいつも雨

 清水小学校が建っていた場所には八坂の塔が倒れても大丈夫なように大きな沼がありました。そこにはカエルもいっぱい住んでいました。  しかし、池は清水小学校建てるときに埋め立てられて、カエルは住むところがなくなってしましました。  それから小学校の運動会のたびに雨が降るようになっちゃって、これがカエルの呪いといわれていたそうです。

三年坂の母校、清水小学校

 三年坂地域には清水小学校という小学校がありました。 清水小学校は明治2年(1872)の創立から平成23年(2011)の閉校まで、清水学区の多くの子供たちが学んできました。  明治2年(1872)、京都府とまちの有志の寄付によって『下京第二十七番組小学校(しもぎょうだいにじゅうななばんぐみしょうがっこう)』が建てられました。当時の学校は長生寺(ちょうしょうじ)の辺りに建てられました。  時代によって移転をし、通う児童も増えてきた小学校。 700名もの児童が通っていた学校で

登り窯は遊び場だった?!

 時代の流れとともに陶器が登り窯で焼かれなくなりました。 火を焚かなくなった三年坂の登り窯はだんだんと地域の中にあるオブジェのようになっていきました。  三年坂地域の子供たちは使われなくなった登り窯に目を付けたようです。 昭和の頃まで三年坂に登り窯は残っており、登り窯をトンネルに見立てた三年坂の子どもたちが、遊び場として楽しんでいたそうです。

坂を利用して作った?登り窯

三年坂は江戸時代から陶器生産の町として有名でした。 そんな陶磁器文化を支えたのが登り窯(のぼりがま) 江戸時代、三年坂には坂の地形を利用して、いくつかの登り窯が建っていました。 登り窯というのは陶磁器を焼く窯の一つです。窯がいくつも階段状に連なっているのが特徴です。連なるそれぞれの窯は底部の小さな窓で繋がっており、下の段で焚いた温度が次の窯へ伝わります。陶磁器が効率よく焼成できる仕組みになっています。 三年坂地域の登り窯では「清水焼」が焼かれていました。清水焼は、江戸時代

井戸から出てきた蛤地蔵

 京都にはお地蔵さまがいたるところにあります。 もちろん、三年坂地域にもありました。  三年坂地域のお地蔵さまは蛤地蔵(はまぐりじぞう)と呼ばれる、蛤の井戸を掘った際に出てきたお地蔵さまがあります。  もともと三年坂地域は埋葬地として有名です。そのため、お地蔵さんが多く存在していたようです。 蛤地蔵は、現在では当時の場所のどこにもありません。 三年坂地域にあった蛤地蔵はすべて八坂の塔に収められていて、今でも残っています。 八坂の塔に行けば、見ることが出来る…かもしれま

なんで三年坂って名前なの?

 三年坂は、一般的に『三年坂』と呼ばれているけれど、実は『産寧坂』や『再念坂』とも呼ばれているんです。 でも、どうしてこんなに名前があるのでしょうか? それは三年坂には4つも名前の由来があるからなんですよ。 一つ目は、大同三年(808)に作られたから、「三年坂」 二つ目は、この坂で転んだ人は三年以内に死んでしまう、という言い伝えから、「三年坂」 三つめは、安産祈願の子安の塔に続く坂だから、「産寧坂」 四つ目は、清水寺で参拝した後この坂で再び念じることから、「再念坂」

「伝建地区」ってなんだろう?

 三年坂地域は京都で初めて、『伝統的建造物群保存地区』指定された地域なんですよ。 でも、伝統的建造物群保存地区ってなんでしょう?  伝統的建造物群保存地区は、伝統的建造物と一体をなして景観を形作る、その環境を残していくために市町村が定める地区のことです。 多くの人に『伝統的建造物群保存地区』、通称:伝建地区と呼ばれています。  伝建地区に指定された地域の歴史的景観を守るために、三年坂では建物の外観を多く残しています。  三年坂地域の美しい景観は、住んでいる人々の努力に

変わらない建物の顔

 「三年坂らしさ」、その大きなひとつが町家の並ぶ景観ですね。 三年坂に並ぶ町家は伝統的建造物群保存地区として伝統的な見た目を残しています。  伝統的とはいっても西洋のように石造ではなくて木造の建物です。耐用年数としては100年ほどなので、その時々で改修が必要になります。しかし、建物に一定のルールである「建築様式」を設けて、守り、残していることによって現在にも伝わっています。 保存しようとされる建物様式は大きく5つに分けることができます。 1.むしこ造り 2.本二階建 3.

どうして三年坂は石畳?

三年坂は石畳が敷かれていて、とても歩きやすいですよね! でも、「坂」と呼ばれているのに、なぜ石畳が布かれているのでしょうか? それは、階段部分はもともと土で作られた道の坂だったからなんです! そして、平安時代に土道から石段へと整備されて、土道だった時よりも歩きやすいようになったんですよ。 でも、三年坂で使われている石畳は何回も取り換えられているんです。 取り換えられた石畳の行方についてはこちらの記事で!!