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算命学余話 #G29 「適応に限界あり」/バックナンバー

 私は子供の頃にピアノを習っていたせいもあってクラシック音楽好きですが、クラシックなら何でも好きかというと、そうでもありません。好みの作曲家や旋律はありますし、総じて短調が好きですが、同じクラシックでも現代音楽は全く好みでない。私が子供の頃は無調性音楽がトレンドだったらしく、当時のテレビ番組などの映像に付けられたBGMはこの種の抽象音楽ばかりでしたが、どうして世間はこうした美しくもないぼんやりした音楽ばかり掛けたがるのかと、子供心に不満でした。美意識は既にある年頃でした。
 それに比べれば、クラシックの中でも古典に部類される楽曲の方が余程耳に心地よかった。口ずさむことができる程度に明快で美しい旋律であり、ピアノで弾くこともできたからです。尤も、多くの古典派の作品には不満があって、それは何十分もの長たらしい一曲の間に突出して美しいフレーズというものは1つ2つしかなく、あとは形式的に付け足したどうということもないフレーズばかりで全体が構成されていたからです。「クラシックは長くて退屈だ」と言われる由縁です。
 こうした退屈な長編楽曲は、そもそも西洋貴族の優雅な日常のBGMとして注文された量産品で、量産品の常として作曲家の命や魂を削って生まれた曲ではなかったことを、後になって知りました。また西洋音楽は形式にはまっていないと音楽として認められないという事情もあり、形式を守るためだけのフレーズと思われる部分に、子供の頃の私はテキトーさを感じ取って、全編を好きにはなれなかったのです。

 私が常々懐疑的に眺めている西洋文明に連なるクラシック音楽は、他にも問題を抱えていました。貴族のためのBGMとして作られていた頃は、つまらないフレーズであってもそれなりに心地良い旋律だったのですが、かの地では創作物をパクるという行為が厳しく非難され、今日では著作権という形で裁判にもなりますが、どこかの作曲家が作ったフレーズを他の作曲家がマネてはならない、というルールがありました。私は30歳を過ぎてから能を始めましたが、日本の古典音楽ときたら既存のフレーズの使い回しとパッチワークで組み上がっていて、西洋人の感覚ではあり得ないパクリ仕事に限りなく近いと痛感したものです。こういうことを西洋クラシック音楽は断じて許さなかった。

 するとどうなったかと言うと、西洋の音楽は「心地よい旋律」があらかた出尽くしてしまい、作曲家たちは完全に手詰まりになってしまった。そこで「オリジナリティー」を求めて禁じ手に手を出すことになります。それが「十二音技法」です。
 これは、12音階しかない西洋音楽の12音を一定の数だけ並べ、それらの音がひと通り出て来ないうちは次のフレーズに進めないという法則で組み上げた音楽です。これにより、既に出尽くした過去のフレーズに知らず知らず行き当たった結果パクるという事態から脱することはできたのですが、こうしてできた音楽はいかにも人工的で、新奇性はあっても美しくも何ともない。ただの音の羅列にしか聞こえません。我々もどこかで聞いたことのある、あの無味乾燥な、いわゆる「現代音楽」です。抽象的すぎて、歌えないから記憶にも残らない。こんな音楽を聞かされるくらいなら、まだ貴族のBGMとして作曲された冗長な宮廷音楽の方がマシというものです。従って、当然ながら聴衆を惹きつけることはできず、ポピュラーにはなりませんでした。

 このエピソードは、西洋文明にありがちな本末転倒な作法の典型だと私は思います。音楽とは本来、心地よいものであるはずです。それを聴けば心や体が癒されたり励まされたりするような効果を期待して、人は音楽を好んで聴くのであって、作曲家のオリジナリティーなど元よりどうでもいい話なのです。それを、西洋人は作曲家のオリジナリティーを優先した。その結果、こんな風な意味不明の、居心地も癒しも励ましも何もない空っぽな音楽を平気で世に出すこととなったのです。
 こんな馬鹿な音楽は、文字も音符も持たない未開地の原住民にだってありません。ジャングルに住む彼らの方が余程、耳に心地よい歌やメロディーを奏でています。彼らにとって音楽とは快適をもたらすものであり、新奇性やオリジナリティーは微塵も考慮されていない。西洋文明の特徴である個人主義が自己顕示欲や閉鎖性となって作用すると、こうしたもはや音楽とは呼べない音楽がこの世に結実するのです。実に不毛です。

 しかしこうした西洋文明の著作権にまつわる閉鎖的規制の意識は、今日世界中で聴かれる大衆音楽についても大いに影響しているように思います。作曲家はパクってはいけないという思いから、こっちに来た方が自然な音符の流れを、敢えてあっちへ飛ばす。すると聴いている人間には不自然に響き、快適さが損なわれる。しかし聴衆はそれに慣れてしまったので、居心地の悪いメロディーを「新奇性」とか「意外性」と称して持てはやすのです。
 私が今も昔も古典音楽を愛好してポップスに渋面を向けているのは、こうした理由からなのだと分析しています。私にとっての音楽とは、小川のせせらぎや森のざわめき、野鳥や虫の声といった自然音と親和性のある快適音なので、騒音や暴力に親和性の高い不自然な作りの旋律や、機械で増幅した破壊的大音量は、耳が疲れて拒否し、音楽とは認めないのです。要するに、私は適応を拒んでいるのです。前回の『算命学余話#G28』につながりました。

 「適応不能」や「拒絶」というとネガティブな印象が付きまといますが、『余話#G28』に掲げた第一状態、つまり生まれながらに備わっている快適標準からあまりにかけ離れ、もはや快適ゾーンを広げるべく適応することさえ不可能だという場合にも、当然「拒絶」は起こります。自己弁護に聞こえるかもしれませんが、以下のような事実もあるのです。
 脳科学の研究によれば、人間の脳というものは、全くの無音空間で生きることはできないそうです。理想としては熱帯雨林の自然音のような、100キロヘルツを超える豊かな音源を浴びているのが一番良く、こうした豊かな音を情報として耳から入れることによって基幹脳の血流が促進し、頭脳は明晰になり、健康は増進されるのだと。しかし現代人の多くは都会に暮らし、豊かな自然音に日常的に触れられる状態ではない。それでも無音よりはマシな状態でいたい。無音でいると、究極的には脳の血流が止まるからです。これは命に係わる問題なのです。

 そこで人間はどうするかというと、熱帯雨林には遠く及ばない低級な音を聞いてでも脳の血流を上げようと足掻くのです。人間の可聴域は20キロヘルツが上限で、現代の音楽の多くはこの範囲に収まっています。世界を席巻する西洋音楽がそうだからであり、これに沿うように開発された録音機などの音楽媒体がそうだからです。この上限を超える音楽はアジアやアフリカの伝統楽器や民俗声楽で人工的に作り出すことはできますが、現在人気があるとは言えませんし、生演奏でなければ音楽媒体の限界に阻まれて、20キロヘルツの狭い箱の中に閉じ込められてしまいます。
 尤も最近になって、この20キロヘルツを超えて録音できる技術が世に出ましたが、録音対象である音楽自体が20キロヘルツ以下であれば、聞き手の耳には当然20キロヘルツ以下の音しか伝わりません。技術が優れていても音楽が劣っているのだから当然です。

 研究によれば、こうした可聴域に限定した乏しい音源を聞いている時、基幹脳の血流は鈍化するといいます。可聴域を超える豊かな音源が基幹脳の血流を促進するのに対し、乏しい音源や人工音は逆の効果をもたらす。それでも「無音状態」よりはマシなので、現代人は乏しい音源で日常を満たし、本物の音楽を知らないまま、低レベルな満足に浸っているというわけです。だから頭脳は明晰さを欠き、記憶力は悪くなり、体全体の血流にも影響して体温が下がり、免疫力が低下して病気になる。
 こういう図式です。これを進化と呼べるでしょうか。退化と呼ぶべきではないのでしょうか。その根源には西洋人が自画自賛する西洋文明の思考パターンがあり、現代人はこれを持てはやして競って奪い合い、真似をし、真似が嵩じてパクって訴えられている。阿鼻叫喚図です。

 こうした研究報告を聞くにつけ、私は自分のこれまでの音楽の取捨が間違っていなかったことを確信しました。また私は登山も趣味ですが、その目的が足腰や心肺機能の向上にあると思っていたのは実は表層的なもので、根源的には自分の脳や体が日本の山に溢れる自然音を求めて山に行きたがっているのだと気付きました。中でも森閑とした山がいい。人里に近いと人工音も増えるので、脳の血流が悪くなります。
 じゃあいっそ人跡未踏の山奥にでも暮らしたら? と言われそうですが、そういうわけにもいきません。私もまた現代人なので、原始人に戻ろうとすればすぐに死んでしまうでしょう。現代人でありながら豊かな自然音を媒体制限に邪魔されることなく浴びて生きるには、社会学的な議論が必要になります。

 さて今回の余話は、こうしたテーマについて、算命学の思想を織り交ぜて考察してみます。たとえば算命学では、「都会向きの宿命」と「田舎向きの宿命」を概ね分けることができますが、どちらがいいとか優れているとかは言っておりません。どちらも一長一短だからです。肝心なのは、その人の宿命や生活環境がどちらにより適しているかを見極めることです。
 私の鑑定経験によれば、都会に住む人は田舎に憧れ、田舎に住む人は都会に憧れているのが通例です。しかしこれを単なる「ないものねだり」と安易に切り捨てるほど、算命学は人間を十把一絡げに見てはおりません。人間は必ずしも「ないものをねだっている」わけではない。本当に必要なものを欲している場合もあるのです。可聴域を超える音源のように。

 昨今は田舎への移住がトレンドとなって、その成功例や失敗例を取り上げる番組も定番となりました。田舎へ移住したいのは、当然ですが都会の生活に不満を抱く人々であり、算命学者としては、こういう人たちは宿命的に都会が合っていないのだろうなと目星をつけています。つまり都会生活に適応できていないか、無理して適応している。それが宿命に出ているだろうと考えるのです。参考までに、都会に向かない命式の例をひとつ挙げてみましょう。

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