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算命学余話 #G79 「死亡と大運」/バックナンバー

 刑務所経験者の話によると、男女を問わず殺人犯の目は、その他の犯罪者の目と明らかに違うそうです。「ガラス玉のようだ」という表現もされています。我々が感じる人間性というものは如実に目に現れる、ということなのでしょう。
 殺人に限らず、人の生き方はそれぞれ人相に影響を及ぼします。それが目に強く現れることもあれば、鼻や口、骨格や肌全体に現れることもある。道徳性が反映されることもあれば、生活習慣や職業病などの反復行為が反映されることもある。磨いた所は光り、酷使した所は削られ、使っていない所は退化する。算命学の宿命消化と同じです。
 算命学は人相学とは違うので、人相については特に言及しておりません。整った容姿や目立つ風貌を備えるかどうかは宿命からざっくり判断できますが、それ以上はできません。だから、人の風貌を形成するのは宿命よりも生き方なのだというのが算命学の考え方であり、もっと言うのなら、外見を飾るより内面を磨いた方がより運勢に影響する、という立場です。

 さて、昨今世間を賑わす事件について、少し気になったことがあります。山梨県道志村の白骨事件は、事件発覚からひと月を過ぎた今もなお、遺骨の一部がぽつぽつと発見され続けています。遺体の幼女が行方不明になったのは三年前ですが、未だに事故か事件か断定できず、捜査中です。
 事件当初は母親が犯人ではないかと疑われたそうですが、今回の白骨発見で再び報道で映し出されるようになった母親の風貌は、異様な印象でした。これでは疑われても無理はない、というのが私の率直な感想です。何かに取り憑かれているような、目玉が真っ黒で光がないような。そして年齢相応に老けた顔とは対照的に長く垂らした髪と、両手に握り締めた子供のぬいぐるみ。明らかに心を病んで見えるのは、消えた我が子を想う母親の心労のせいなのか、疑惑の通り犯人だからなのか、見分けがつきません。

 この母親の宿命を見たわけではないですし、仮に見たところで殺人犯かそうでないかは宿命だけから読み取れるものではありませんが、算命学者としての私の鑑定経験と、この人が人前に晒している風貌を統合すると、この人の生き方、つまり宿命消化が我が子に与えた影響というものが、ぼんやりと見えてきます。そもそもなぜ三年経った今頃になって、遺体はばらばらになって発見されたのでしょうか。誰かが殺害した後で遺体を保管し、最近になって発見現場付近で改めて遺棄したからでしょうか。
 事件の解明は警察に任せるとして、今回の余話は、こうした事象を算命学はどう解釈するのかを考察してみます。

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