算命学余話 #R68「虚業を考える」/バックナンバー
ウラジーミル・メグレ氏の体験談として綴られる『アナスタシア』と続編の和訳は、「響きわたるシベリア杉シリーズ」として現在6巻まで刊行されていますが、アナスタシアの予言によると全9巻まで続くとのことです。
メグレ氏がそもそも作家でないということと、和訳が露文からではなく英文を通した重訳であることから、やや意味の取りにくい文面が気にならないでもないですが、本質的な部分は充分把握できます。そしてその本質的な部分は、算命学の自然思想とかぶることが多いので、その辺りを少し紹介したいと思います。
念のため、両者の一致部分は本質ではかなり近いものがあるものの、完全に一致しているわけではないことは明記しておきます。一番の違いは、アナスタシアが心の正しい人間として善を肯定し悪を否定するのに対し、算命学は陰陽論の立場から、善にも悪にも肩入れしないところです。従って、アナスタシアの主張には人を感動させる力がありますが、算命学の思想には感動はなく、ただ事実や真実に冷ややかに肉迫した驚きがあるのみです。
前回はアナスタシアが提唱する「正しい生殖行為」について書きました。このような正しい作法で生まれた子供は宇宙の法則に沿って生まれるため、成長すればいわゆる「天才」となって社会を正しい方向へ導く、というのがアナスタシアの主張です。逆に言えば、間違った作法で生まれた子供はできが悪く、無知蒙昧で、自分が生まれた意味を考えることもなく虚しい一生を動物のように過ごすことになります。世の親御さん、どうですか。自分の子供の出来具合と受胎の瞬間の両親の精神状態は比例していたと、思い当たる節がありますか。シリーズ第2巻には、以下のような記述もあります。
――肉欲の結果として身ごもった場合、分娩は苦痛でしかない。その女性は、分娩の苦痛とその後の人生の苦痛とで償いをすることになる。妊娠が、それとは別の(子供が欲しいという男女の)熱望の下にもたらされたなら、出産の痛みはその女性の大いなる創造の喜びを更に強化することになる。そして不注意に妊娠した場合、出産日は突然やってくる(予測も作為もできない)が、(そうでない場合)本来母親は出産日を数日遅らせたり早めたりできるものだ。(そしてアナスタシアは実際にメグレ氏との間にできた子供を、出産に都合のよい暖かな日を選んで、痛みもなく森の中で一人で出産した。)――
アナスタシアは生まれからして一種の神の子というか超人なので、どの人間も本来はこうだという彼女の主張を真に受けるべきか悩みますが、現代人の性行為の多くが快楽目的であることが否めない事実や、人類が時代を超えて漁色男や娼婦を蔑んできた歴史等を考えると、この世に真の天才が滅多に生まれない事実も道理ありと言えそうです。
皆さんはどう思われますか。ちなみにメグレ氏は『アナスタシア』第1巻を出版後、多くの哲学者や宗教家たちから、「お前は精神性が低いから、アナスタシアの高尚な主張を疑いなくすんなり呑み込めないのである」と厳しい批判を浴びています。また逆に一般読者から、「アナスタシアは実在するのか、本当は作り話なのではないか」という疑いの声にも晒されました。これに対するアナスタシアの祖父の見解は以下の通りです。
――そんなことを尋ねる人がいるはずはない。彼らはその本と接した瞬間に彼女(アナスタシア)を感じるはずだ。彼女はその本の中にも存在しているのだから。仮相に生きる人間はそういう質問をするが、実相の人間はしない。――
ここで祖父はある実験をしてみせます。(この祖父も常人とは違いますが、アナスタシアに比べればその超人ぶりは微弱だと自称しています。)路傍のとある不良娘を細かく観察することでその本質を見抜き、その不良という偽りの被り物を取り去ることで、本質である純真な娘を引き出すという技を、メグレ氏の目の前でやってのけたのです。メグレ氏は催眠術か何かだと驚嘆しますが、祖父は以下のように説明します。
――催眠術ではないよ。これは相手に対する深い観察から来ているのだ。その人の本質を観察する。それを覆っている人工的なイメージではなく。周囲の人がその人の仮相を見るのではなく、実相に焦点を当てると、その人の本質である自己は即座にそれに反応し、力を回復する。私は彼女がまだ幼くて、まっすぐで、押しつけられたイメージに覆われていなかった頃に、彼女の両親が使ったと思われる声やトーンになるべく近い感じで話そうと努めた。彼女、すなわちその幼い女の子、実相の彼女は、瞬時にそれに応えたのだ。――
皆さんには同じような経験はあるでしょうか。私は若い頃ある人物に、ここで述べられているところの私の「本質」に焦点を当てられたおかげで、それまでのモヤモヤが一気に吹き飛び、その後は自分の意思を貫いて生きることにしたという経験があるので、このエピソードは他人事とは思われませんでした。もしこの経験がなかったなら、私はこの路傍の不良娘のように、人工的にあてがわれた偽りの、周囲に都合のいいイメージのキャラであることを余儀なくされて、本質とは関わりのない偽りの人生を延々と続けていたかもしれません。そして、この経験がなかったなら、アナスタシアの祖父のこのエピソードに、何ら感銘を受けなかったかもしれません。皆さんはどちらでしょう。
私が傾倒しているドストエフスキーの小説『白痴』や『カラマーゾフの兄弟』にも、これに似たシーンが描かれています。『白痴』のヒロインは男たちを手玉に取る悪女でしたが、主人公の伯爵にその純真な本質を突かれた瞬間絶句していますし、『カラマーゾフ』の兄弟の父親の愛人はチリ人妻アニータのような毒婦と称されていましたが、末弟のアリョーシャに「普通の優しいお姐さん」扱いされて毒気を抜かれています。
皆さんはこれらのシーンに感銘を受けたでしょうか、それとも読み飛ばしたでしょうか。そこを分けるのは、似た経験のあるなしに依ると考えられますし、そもそも『白痴』も『カラマーゾフ』も読んだことがない、今後も読むことはないというのであれば、その人は上述のような…。
ところで、実相・仮相という言葉が出てきました。これは前回余話の実業・虚業と通底する概念です。今回の余話は、前回省略してしまった虚業について、少し掘り下げてみます。なお、前回余話に関連する五徳輪番を考察した記事は、余話U#48玄「還暦と時代の変遷」に、男女の生殖行為の差についてはU#13「気と血縁の混濁」やU#14「男女の気は逆行する」に、子供の養育についてはU#16-18にそれぞれ取り上げているので、参照下さい。
前回余話では、算命学の云うところの虚業とは、金貸しのように何も生み出さず、ただ寝そべって時間が経つのを待つだけで儲けを得る類の業種だと述べました。算命学がいかに善悪を論じないといっても、人間がメシを食わずに生きていけるという話には賛同しませんから、食料生産を第一目的とする実業の方を虚業より上位に置くのは当然のことです。
でありながら、算命学は同時に虚業の存在意義を認めています。そもそも陰陽論で組み上げられた算命学ですから、実があれば対極に虚があるし、実業があるなら当然のように虚業もなくては世界が成り立ちません。
そして前回述べた通り、虚業は実業に比べてごく少数であるのが望ましい。そうでないと実業の筆頭である食料生産が脅かされて、食料不足に悩む人類が殺し合いを始めるからです。それにもかかわらず、虚業が世界に存在する理由とは一体何なのでしょうか。
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