算命学余話 #G52 「燃える地支」/バックナンバー
前回の余話#G51では、現代人が無責任になった原因を算命学的観点から眺めてみました。スマホの普及だけが悪いのではなく、根本的にモノの溢れる大量消費社会が、「本当に必要で大切なもの」を見えなくしている。大切な宝石が色とりどりの石ころの中に埋もれてしまい、スマホの普及がそれを助長している。その結果、人間は幸福のアイテムをみすみす手放し、くだらないものを腕一杯に抱えて不幸になった。現代人の心の貧しさや心の病といったものは、総じてこうした風景だ、という話でした。
勿論、幸せを手にしている人もいます。そういう人は、宝石と石ころの区別がつく目利きと呼ぶべきかもしれません。算命学の思想や技術によって、目利きとしての技量を身につけることは可能だと思いますが、それ以外の方法だって勿論あります。自分にとって相応しい方法を見つけることが開運の鍵であり、その方法は算命学に限ったことではありません。
一番手っ取り早いのは、人と気の交流をすることです。既に目利きである人と交流できて、その人から手法を学べれば一番の近道ですが、仮に目利きの人でなかったとしても、その人を伝手として更に交流を広げ、交流の数をこなしているうちにいつの間にか自分が目利きになっている、という道もあるでしょう。一番いけないのは、人との交流を絶って引きこもることです。
その人にとっての宝石が何であるかは、人それぞれです。幸せの扱いについては、以前の余話#U40「守備本能と幸福」で論じたので、そちらも参照下さい。また引きこもりについては余話#R100「ひきこもりについて」を参照下さい。
今回の余話は、前回引き合いに出した作家、坂口恭平氏の宿命と、ある死刑囚の宿命を比較してみます。というのも、自らの躁鬱病体験を書籍にまで昇華させ、多少お騒がせではあっても(ありましたよ、お騒がせ星が)、社会の一員として立派に役立ち評価もされている坂口氏の、その際立ったエキセントリックさの原因を宿命に探してみたところ、似通った星並びの死刑囚を思い出したからです。その死刑囚とは、座間9人殺害事件の犯人です。とはいえ、似ているのはごく一部ですが、そのごく一部を取っても、二人の明暗を分けたのが何であったか考察する価値はありそうです。
両名とも存命なので命式の総括は死ぬまでは確定できませんが、もしも彼らの星並びに似た生まれの子供がいて、その子の養育方法に迷ったら、こういう育て方をするのが良いという算命学的考察は提示できると思います。また特に近似の宿命を考慮しなくとも、算命学の鑑定手法の一端を知る参考にもなります。両名の宿命全体の鑑定ではなく、一部にのみフォーカスした内容になりますので、予めご了承ください。
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