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広瀬和生の「この落語を観た!」Vol.159

1月24日(水)「代官山落語夜咄 三遊亭兼好『紺屋高尾』 produced by 広瀬和生」@晴れたら空に豆まいて

1月24日(水)の演目はこちら。

三遊亭兼好『紺屋高尾』
~仲入り~
三遊亭兼好×広瀬和生(トーク)

職人が高嶺の花の花魁に恋をして、その真心が通じて夫婦になるというストーリーの落語には『紺屋高尾』と『幾代餅』がある。『幾代餅』は五代目古今亭志ん生が講談の『幾代餅の由来』を翻案したもので、倅の十代目金原亭馬生と古今亭志ん朝が手掛けたことでポピュラーになり、寄席の高座でもよく掛かる。柳家さん喬、桃月庵白酒などが得意とする演目だ。

一方の『紺屋高尾』には大きく分けると二系統あって、ひとつは六代目三遊亭圓生、もうひとつは立川談志。圓生は五代目金原亭馬生から『紺屋高尾』を教わり、五代目三遊亭圓楽がこれを継承した。談志は講釈師の五代目一龍斎貞丈から『紺屋高尾』を教わっているが、実はそこに浪曲のテイストを取り入れている。『紺屋高尾』という物語を世に広く知らしめたのは落語でも講談でもなく浪曲で、大正から昭和にかけて活躍した浪曲師の初代篠田実の吹き込んだレコードが大ヒットして『紺屋高尾』はポピュラーな物語となり、舞台や映画の題材ともなった。「遊女は客に惚れたと言い、客は来もせでまた来ると言う」という有名なフレーズは篠田実の浪曲にあったものだ。

いま、『紺屋高尾』というと圓生系より談志系のほうがポピュラーと言えるかもしれない。談志の型を継承したのは志の輔、談春、志らくといった立川流だけではなく、柳家花緑や三遊亭遊雀も談春経由で談志型の『紺屋高尾』をやっている。一方、圓生系の『紺屋高尾』の演者を代表するのは三遊亭兼好ということになるだろう。(春風亭一之輔も圓生系の『紺屋高尾』を持ちネタにしているが、それほど頻繁に演じてはいないようだ)

実のところ、“圓生系の『紺屋高尾』”を人気演目として定着させたのは五代目圓楽だ。圓楽は圓生の『紺屋高尾』をより現代的な人情噺として磨き上げ、さかんに演じていた。兼好は圓楽の総領弟子である三遊亭鳳楽から『紺屋高尾』の稽古をつけてもらっており、ベースは完全に圓楽の型。ただし兼好はそこに独自の演出を大きく加え、笑いどころが多く爽快な後味を残すコンパクトな『紺屋高尾』を創り上げた。

圓生/圓楽系の『紺屋高尾』は、神田の紺屋町の染物屋の職人の久蔵が寝込んでいるのを心配した親方の吉兵衛が、通りがかった医者の武内蘭石(お玉が池の先生)を呼び込むところから始まる。蘭石は久蔵を診て「全盛を誇る三浦屋の高尾太夫に恋患いだろう」と言い当て、驚く久蔵に「お前が高尾の絵草子を慌てて隠したのを見た」と種明かしをして、久蔵は「友達に連れて行かれた吉原で花魁道中を見て高尾に一目惚れしたものの、『あれは大名道具、お前はそばにも寄れない相手だ』と言われて仕方なく絵草子を買って帰ったものの想いは募るばかりで寝込んでしまった」と打ち明ける。兼好も基本的にはその流れだが、吉兵衛をはじめ店の連中が武内蘭石を完全に藪医者あつかいする演出で大いに笑わせてくれる。兼好の演じる蘭石は久蔵に「目を見て脈を取れば三浦屋の高尾に惚れたとわかる」と言ったまま種明かしをせず、吉兵衛にだけ真相を明かすのだった。

高尾は「ちらっと会うだけでも十両かかる相手」と蘭石が言うのを聞いた吉兵衛は「一年に三両、三年働いて九両貯めろ。一両足して必ず会わせてやる」と励まし、三年後、久蔵は蘭石に連れられて吉原へ。「紺屋の職人では会ってもらえない。流山のお大尽ということにする」と言い、「口を利かず、藍色に染まった手は懐に隠して万事『あいよ、あいよ』と返事すればいい」と言われた久蔵はそのとおりにして茶屋から三浦屋に通され、久蔵一人が高尾の部屋へ。「ぬしはよう来てくんなました。今度はいつ来てくんなます?」と挨拶された久蔵、「あいよ、あいよ」と繰り返すばかりだったが、「三年経ったら、またまいります」と言って、自分が紺屋の職人だと明かし、三年前に一目惚れして恋患いで寝込み、三年働いて金を貯めた経緯を話す。

「それは本当のことざますか?」と訊く高尾に久蔵は藍色に染まった手を見せる。「三年経ったら花魁はもうここにはいないかもしれない。でも、嘘でもいいから『三年経ったらまたおいで』って言ってください。そう言ってくれたら、その言葉を糧に、また一生懸命働ける。三年経ったら花魁に会えると思ってこの三年、本当に楽しかった。今までこんなに楽しかったことはありませんでした」 この“三年間楽しかった”という台詞は兼好独自のものだ。

これを聞いた高尾は久蔵の名を尋ねると、「わちきは来年二月の十五日に年季(ねん)が明けるのざます。そうしたら女房にしてくんなますか」と言い出す。「あいよ、あいよ」と呆然とする久蔵。「すぐに酒、肴が運ばれて、あとは亭主の扱い。「あとはもう何も覚えちゃおりません。こんな幸せなひと時はなかったのでございましょう、久蔵は初めて明ける朝になるお天道様のを恨みました」と兼好は地で語る。別れ際に香筐の蓋を渡し、「来年二月の十五日まで、二度とこの里に足を踏み入れてはなりんせん」と高尾に言われた久蔵はもう有頂天で、再び働き始める。そして二月十五日、蘭石が吉兵衛を訪ね、吉兵衛が「高尾が来るはずないでしょう。会えた嬉しさで、聞こえないものが聞こえただけですよ」と答えるのを聞いて帰ろうとすると、そこに高尾がやって来た。「久蔵はんは?」と訊く高尾。あとはもう、大騒ぎ。

締め括りは地の語り。「親方が間に入って二人は夫婦となり、独立して店を持つ。この高尾という人は商才があったようで、“駄染め”というのを考案して、店は大いに繁盛。ですから後に駄染高尾とも言われ、また紺屋の職人に嫁いだので紺屋高尾と言われるようになりまして……高尾にも代々おりますが、皆その全盛とは裏腹に悲惨な末路を遂げた中で、この紺屋高尾だけは三人の子に恵まれ、八十余歳の天寿を全うしたと言われます。『傾城に誠なしとは誰が言うた 誠あるほど通いもせずに』 名妓伝のうち紺屋高尾の一席でございます」と締めた。このくだりは五代目圓楽由来のもの。ピシッと締めて爽快な余韻を残す。兼好ならではの逸品だ。

#広瀬和生  #この落語を観た #三遊亭兼好

次回の広瀬和生「この落語を観た!」もお楽しみに!
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