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パフェとちびっ子

    目の前でパフェを頬張るこの子は、まだ五歳で、世の中のことを何も知らない。

 失恋も、挫折も、酒の味も彼は知らない。ただぼんやりとした視界で、広い世間を雄大に眺めては、あれはなあに、それはどうしてと大人を困らせてばかりいる。

 去年から、親戚の子どもを預かるようになった。預かるといっても、ひと月にいっぺん、その子を連れてどこかへ行くだけである。

 私には兄弟がないから、年の離れたちびっ子と、いったいどう接すればいいのかよく分からない。だからいまもこうやって、彼がパフェを頬張る姿を、ただぼんやりと眺めている。

 私がまだ彼と同じくらいの歳のころ、喫茶店へ行くと、母は決まって「早うコーヒーが飲めるようにならにゃいけんで」と私にいった。つまり大きくなって女の子と喫茶店へ行くようになったとき、コーヒーが飲めないようでは恥をかくというのである。幼い私は、長らくそういうものかと思っていた。

 母の他にも「酒が飲めなければ、たばこもある程度は吸えなければ、出世はなかなかできないよ」とおじさんはよくいっていたし、祖父も「男は泣いたらあかん、泣いてええのんは、めでたいときと、誰ぞが死んだときだけや」とよくいったものである。

 いまから考えれば、どれも時代おくれの教訓で、あまり社会で役には立たない。むしろ足かせになってしまいそうなものばかりである。しかし、いまこうやってひとりのちびっ子を目前にしてみると、母や祖父の気持ちが、ほんの少し分かるような気がする。このどんくさそうな子どもが、将来デートで恥をかかないように、少しでも出世ができるように、鬼ばかりの社会の中で、挫けず生きていかれるように。そんな思いからの、自らの実体験に基づいた彼らなりの教育だったのだろうと思う。

 そうはいっても、移り行く時代のなかで彼らの教えはすっかり古くさいものになってしまった。喫茶店には、コーヒーよりもずっと映える飲み物がいくつもあるし、煙草を呑むひとだって、ひと昔まえに比ぶればずっと少なくなってしまった。お酒に関しては、いまでも少しは呑めた方がよかろうけれど、全く呑めなくたって何ら問題がない。男は、女はということについても、内心ではいまだ大勢のひとが古い価値観に浸っているけれど、それを口に出してはいけないことになっている。

 とにもかくにも、周囲の大人の懸命の努力を嘲笑うかのように、私はすっかりダメな二十三歳に育ってしまった。煙草も吸うし、そうモテるわけでもないし、なにより国文科の修士へ行く事になっていて、出世という言葉からどんどん遠ざかっている。この子からしてみれば、まったくダメなお兄ちゃんである。

 そんな私が、この子に教えられる事などあるのだろうか。何もないような気がする。それでも、長いスプーンをがっしと握り、懸命にパフェを頬張るちびっ子よ。どうかこのまますくすくと、優しい大人に育っておくれ。優しい大人は損をする。それでもどうか育っておくれ。親戚のダメなお兄ちゃんは、祈りに近い気持ちで、そう願っているよ。


 サムネイル : 永井 本(@nagai_hon

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