父の小遣い

 小さい頃、母に叱られたことがある。
「お母さんはお小遣いをくれるけど、お父さんはくれない」
 私が夕食の席でこう言うと、母は諌める様に、
「けど、そのお金を稼いどるのはお父さんで」
 と私を叱った。そのとき父は何も言わなかった。

 この夏、お盆に実家へ帰省した。久しぶりの自分の部屋は、私が四月に出ていった時のままであった。興味のある本はすべて京都へ運んだから、残っているのはもう読まないと踏んだものばかりである。世界の大思想や、文学全集が山と積まれた私の部屋は、ホコリ臭く、とても寝られはしなかった。であるから、私は一階の仏間に陣取って、そこで一週間寝起きをした。
 
 仏間に寝ていると、父が毎朝お勤めに来る。ロウソクに火を点け、線香を三本立てて、お輪をひとつチーンと鳴らす。それからごにょごにょと、何だかわからない事を言う。うちは法華だが、父の実家は真言である。そのせいか知らないが、私には何か聞き取れない。とかく一日の健康を祈っている事だけは確からしい。
 
 中学の頃、私はこのお勤めが嫌で嫌で仕方なかった。お勤めが嫌というよりも、父の一挙一動が気に食わなかった。それはつまり、音を立ててシチューを食べ、お茶を口に含んでグチュグチュ鳴らし、何度も同じ話をする。そんな、如何にも岡山の片田舎で育ったという父の姿が、如何にも田舎者で、如何にも野暮天で、如何にも無粋で、堪らなく嫌だった。
 
 それ故に、私は伝統あるものに惹かれた。洗練されていて、美しいものに惹かれた。それは講釈であり、歌舞伎であり、落語であった。私は伯龍に惚れ、仁左衛門に酔い、志ん朝に陶酔した。教養という言葉に憧れ、ありったけの文学全集や思想書に淫した。しかしそれは、麻疹の様なもので、結局手元には落語しか残らなかった。

 京都へ帰る二日前、私は朝っぱらから古い電蓄を取り出して、志ん生のレコードを聴いていた。

わァわァ言いながら、下谷の山崎町を出まして上野の山下へかかって参ります…

 志ん生の小気味いい調子に酔いながら、広縁に座布団を敷いて、ウトウト二度寝をしていると、ドタドタという足音と共に、部屋の襖がスッと開いた。

 父は毎朝のお経を終えると、ふいに「お母さんにはいくら貰っとるんな」と私に尋ねた。私は「貰ってないよ」と素直に答えた。それじゃ暮らせんじゃろ。バイトしとるけん。そうか、大変じゃろう。まあ、なんとかなっとるよ。この短いやり取りの後、父は直ぐに部屋を出た。
 
 仕送りをもらわないというのは、私の小さな自慢であった。そして精一杯の親孝行のつもりでもいた。京都でひとり暮らすには、月に十万近くのお金がかかる。私の様な学生が、月に十万のお足を得るには、それ相応に苦労する。それでも、学費の上に、なお仕送りまで下さいとは、私には到底言えなかった。
 
 京都へ帰る前の晩、私は浴衣一枚で部屋に寝ていた。するとそこへ父が来た。父はおもむろに「小遣いじゃ」と言って封筒を差し出した。私はおきあがりこぼしの達磨の様にスクリ身を起こし受け取った。ありがとう。私がひと言お礼を言うと、父はそのまま戻って行った。
 
 珍しい事もあるもんだ。幾ら入っているだろう。五千円も入れてくれているかしらん。そんな事を考えながら、封筒の中身を覗いてみると、中には一万点のピン札が四枚入っていた。

 運送会社の非正規である父の給金を時給に直すと、私のバイトのそれと変わらない。齢も、一昔前なら隠居をして居ておかしくない歳である。その父が、四万というお金を用意するのは、並大抵の事ではないはずである。それくらいの事は、出来の悪い馬鹿息子にだって容易にわかった。

 私は涙が溢れてきた。拭っても拭っても涙がこみ上げてきた。
 
 父は昔堅気の人である。だから親戚にお年玉をやる時も、奇数はよくない、四という数は縁起が悪いと口を酸っぱくする。なのに、封筒には一万円札が四枚入っている。よれよれの、中国銀行と書かれた鼠の封筒には、一万円札が四枚収まっている。これが父の用意できる目一杯であった。そして父は、普段あれだけ担いでいる験を捨ててまで、私にこのお金をくれたのである。

 私は畳に崩れる様にして泣いた。額に封筒を押し当てて、お父さんありがとうと、顔をクシャクシャにして泣いた。
 
 封筒の裏には、太いマジックペンの汚い文字で「遊びに行きなさい。お母さんには内緒にするように。父」とあった。それが、父から貰った初めての小遣いであった。

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