見出し画像

江戸時代の明石に関わった剣の達人二人。宮本武蔵と野村彌生菊之進

はじめに

※本記事は執筆当時の時点で判明していた事実に基いて記しておりますが、令和5年3月、野村彌生氏に関する確かな記録が国立国会図書館の所蔵資料から発見され、本稿で記載されている内容とは異なる事実が複数判明致しました。
令和5年8月、野村彌生氏の人物像を正しく解釈しなおして、新たに編纂した内容を「明石と最後の剣士 野村彌生」と題し、書籍として出版致しました。
本記事は、史実とは異なる内容ながら、「それまでに伝わっていた事象の記録」として、内容の改定を行わず、執筆当時のものをそのまま掲載しております。
ご興味がおありの方は、書籍「明石と最後の剣士 野村彌生」をご高覧いただけますと幸いです。書籍は インターネット通販サンナビ からお買い求め頂けます。

「明石と最後の剣士 野村彌生」 表紙


画像13

日本の標準時を告げる子午線の町・明石の玄関、JR及び山陽電車、明石駅北側に明石城趾がある。

明石城は元和3年(1617年)徳川幕府2代将軍・徳川秀忠による命を受けて信濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真(当時は忠政)が築城した。慶長20年(1615年)に幕府が制定した「一国一城令」によって、周辺にあった三木城・高砂城・枝吉城・船上城などが廃城となり、その資材を用いて現在の位置に着工、その際、元々この地にあった人丸神社と月照寺が東の小高い丘に移された。

画像2

喜春城とも錦江城とも呼ばれる明石城の城下町の形成に設計士として参加したのが宮本武蔵だった。元和元年(1615年)の大坂夏の陣で幕府軍として戦った縁で武蔵に大役が任されたが、剣豪が町づくりの技師として才能を発揮した。明石城下南部の整然とした区割りが武蔵の町づくりの成果として今もその姿を留めている。そして江戸時代後期に第9代明石藩主・松平慶憲に仕え、徳川幕府と明石藩のために貢献したのが北辰一刀流の剣士・野村彌生である。

幕末、明治、激動の日本を剣一筋に生き抜いたラストサムライ・野村彌生菊之進

画像3

人丸山から眺める明石市街のパノラマ。

画像4

曹洞宗の禅寺・月照寺に剣士・野村彌生が石碑として顕彰されている(明石城が築かれた際、築城予定地からこの丘の上へと移築された)。

画像5

月照寺境内から東経135度上に建てられた明石市立天文科学館の時計塔を見上げる筆者・三条杜夫。

画像6

参道に建てられた剣士・野村彌生の石碑。この碑は大正年間に初代内閣総理大臣・伊藤博文の書生となった伊藤明随の揮毫によって建てられた。彼もまた、隣接する人丸神社境内に碑を残している。

画像7

万葉の歌人・柿本人麻呂ゆかりの人丸神社。

画像8

境内奥にある伊藤明随の碑。彼は明治天皇の御前で揮毫し「日本一」と賞賛されるほどの腕前だったことから筆塚も並んで建てられている。

野村彌生はソメイヨシノの発祥地・江戸駒込の生まれ

江戸駒込の染井村で桜の新種・ソメイヨシノが開発され、全国に普及を始めていた。そんな江戸の駒込で、野村彌生は弘化2年12月28日(1846年1月25日) 土肥右仲太の三男として誕生、土肥彌生菊之進と命名された。元神戸市会議員・野村昌弘の曾祖父に当たる。

 江戸では神田お玉ヶ池にある剣術の千葉道場が注目を集めていた。それというのも道場主の千葉周作成政が創始した北辰一刀流を伝授してもらえることで盛り上がっていたのである。周作は千葉家流の北辰夢想流の北辰と伊藤一刀斎の一刀流を併せて北辰一刀流を編み出した。竹刀と防具を用いた打ち込み稽古を行うやり方が後世の剣道へと発展していく。
江戸時代後期、斬新なこの北辰一刀流を身に付けたいと心ひかれた土肥彌生が、元服を終えて千葉道場に入門した。300名を越える門下生がいるなかでも人一倍稽古熱心な土肥は、道場主の千葉周作自らの指導を受けられるまでに上達していく。

千葉撃剣会

写真が一般に普及する前の時代、 浮世絵に描かれた千葉道場。 絵師:月岡芳年 表題:「千葉撃剣会:来ル六月一日より晴天十五日間深川元船蔵前観音境内におゐて興行」

厳しい修行に耐えて腕を上げた菊之進を見込んで千葉周作が、徳川幕府直系の松平家が治める播磨国明石藩に仕官を勧めた。三男の土肥彌生菊之進は江戸に留まる必要がないので、周作の奨めに従って明石に移り住んだ。第9代明石藩主・松平慶憲に仕えるうちに菊之進に新たな絆が芽生えた。

宿場町・大蔵谷の旧家と養子縁組

大蔵谷の旧家・野村釜次朗が菊之進を見込んで娘・つねの養子に迎えた。野村彌生菊之進となっての新たな人生が始まった。

画像10

今も宿場町の名残を留める大蔵谷。参勤交代の大名が泊まる本陣もあって賑わっていた。

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、第15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を実行し、12月、朝廷は王政復古令を発した。260年間続いた徳川政権が幕を引き、江戸城から追放された最後の将軍・徳川慶喜の屈辱を晴らし、主君を警護しようと江戸において彰義隊が結成された。これと呼応して明石藩では、支援隊が編成され、江戸まで遠征することとなった。

画像11

国史画帖大和桜より「上野戦争」

津田柳雪を大目付役・隊長として、その子芳之助は同じ藩士の百江峰弥、高橋源次郎、中根与作、村上保雄、大谷善三郎、小林専弥、下田半也、林司、中村太四郎、野村彌生、小沢良助、その子理喜雄、長谷川元弥、小畑源之助、三輪次郎作、藤村皆天、尾野隈五郎、帰山鉄太郎、柳川熊乙、鷲田貞之助、飯野久米次郎、岡田健八、その弟坦次郎、青山藤助、遠山省三、山本秀三郎 らとはかり、明石藩の責任において松石隊を結成。彰義隊を支援することとなった。いずれ劣らぬ剣の使い手で明石では名の知られた者ばかりだった。

上野戦争は土砂降りの雨の中で。松石隊員四分の一が戦死

慶応4年5月15日、彰義隊と新政府軍との戦い、後に言う上野戦争は降りしきる雨のなか壮絶な戦いが繰り広げられ、寛永寺周辺は修羅場と化した。
上野戦争は彰義隊の敗北により一日で終結し、松石隊も四分の一の隊員を失う結果となった。松石隊の戦死者は次の通り。
津田芳之助、百江峰弥、山本秀三郎、大谷善三郎、小沢良助、小沢理喜雄、飯野久米次郎。
慶応4年夏、野村彌生が四分の一減少した同志たちと共に明石に帰還した。

剣士としての信念を貫き通す

明治新政府が新生日本の政治を司る上で、大日本帝國陸軍を組織した。菊之進は陸軍中将に就任の誘いを受ける。侍という身分制度が消滅した以上は何かで定職を得る必要がある。陸軍中将は有り難い誘いだったが、菊之進は首を縦に振らなかった。
「我が身は徳川幕府一族に仕えて来た身。武士は二君に仕えるわけにはいかぬ」と誘いを断った。これまでの日本を支えてきた武道の精神を守ることで菊之進は明治という新時代を生き抜いていく。明治9年(1876年)、菊之進が住む明石は兵庫県の一部となった。

剣の技と精神は人の道

明治34年(1901年)姫路市に兵庫県が第二師範学校を設立した。その剣道教師に野村彌生菊之進は就任した。

兵庫師範学校運動場

兵庫師範学校・運動場(大正時代)

野村彌生菊之進の指南は厳しいことで評判となったが、彼を慕って入学してくる者もいた。後に日展の審査員にもなった書家・安東聖空が神戸新聞に自叙伝として次のように記している。
「姫路師範学校に入学して剣道部に籍を置き、彰義隊の生き残りの野村彌生教師の指導を受けた。既にご高齢になっておられたが、さすがは実戦体験者だけに厳しい稽古だった。大上段から切り込んだ『面!』の一撃をくうと、目から火が出、頭の中がからっぽになり、足がすくんだ。だが一週間に一度の剣道の時間が真実、私の時間であり、先生の指導は一度も欠かさなかった。」
野村は剣を通して人としての生き方も説いた。命の尊さを身を以て体得しただけにその指導には説得力があった。姫路師範学校は兵庫師範学校を経て神戸大学へと発展する。

京都武徳殿でも指導

江戸時代初期には吉岡道場が多数の門弟を集めて賑わいを見せていた。噂を聞きつけて宮本武蔵が手合わせに訪れた逸話も残っている。そんな京都ならではの日本の武道を守る武徳殿へも野村は指導に出かけた。

画像13

京都旧武徳殿での稽古風景(平成)。伝統は現代まで守り抜かれている。

伝統の京都においても定期的に野村の指導が待たれるのだった。野村は高齢になってはいたが、青年時代に徳川慶喜を守って上野で実戦を体験した身だけに老いてその技は円熟味を増し、凄みがあった。
「剣術という技に心を添えて、これからの時代は人間としての生きるすべを会得する剣道の極意を伝授したい」と、剣を通して人の道を説き、後進の指導育成に情熱を燃やし続けた。

熱血は歳月の流れを超えて

大正5年(1916年)1月7日、野村彌生菊之進は次の世に旅立っていった。享年71歳。
剣に生き、剣に死んでいった野村彌生菊之進が語り草として残されることとなり、 昭和8年(1933年)には伊藤明瑞の揮毫による顕彰碑が月照寺参道に建立され、人の世の生き死にの尊さを見る人に今も語りかけてくる。

画像14

石碑の背面には野村彌生菊之進の生涯が記録されている(昭和八年十一月 田邊又右衛門 野村鎓助 建立 伊藤明瑞 書 と読み取れる)。


画像16

野村彌生菊之進の曾孫に当たる野村昌弘氏は昭和の時代を神戸市会議員として活躍した。人々の支援に撤するさまは、曾祖父の一徹さを受け継ぐものとして納得がいく。野村昌弘氏は現在 Facebook を利用されているので、関心お有りの方は友達申請をしてみると良いだろう。アカウントはコチラからアクセスできる。

時の流れと共に人は生き、時の過ぎゆくままに人はこの世を去って行く。願わくば、今を生かされている人々のかけがえのない人生という旅がより充実したものとなることを願ってこの報告書を公開させて頂くものである。

令和3年(2021年) 金木犀香る日に記す


はじめに記載の通り、令和5年3月野村彌生氏に関する新発見がありました。

国立国会図書館の所蔵資料から明らかとなった新事実。
江戸・掛川藩邸に生まれ、数奇な巡り合わせから江戸詰めの明石藩士となり、いかに徳川家のために尽力し、どのように播州明石にやってきたのか?
これらの確かな事実を基に本稿に記載の内容を大幅に改訂、書籍「明石と最後の剣士 野村彌生」として、令和5年8月26日株式会社みのる印刷より発行致しました。

幕末・日本の動乱の様子、明石をはじめとする兵庫県の歴史を交えなら分かりやすく描いた歴史物語は インターネット通販サンナビ から好評発売中です。

制作の中心となった野村彌生の曾孫・野村昌弘氏と「明石と最後の剣士 野村彌生」(令和5年8月撮影)。

令和5(2023)年 盛夏に記す

三条杜夫


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?