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他者の痛みと倫理

人間は集団になると、自分が思ってもいないことを話し出すことがあります。ほんとうは、違う考えや気持ちをもっているのに、周囲に合わせて水を差さないようにしてしまいます。

いつも明るく元気だったある人が、とても重い病気の可能性があるとわかったとき、お別れの話を交わしながら心配そうな言葉をかけるある方の、その表情の中に、ちらりと笑みがあるのに気づいたことがあります。

その笑みを浮かべていた方も、いつも明るく元気なのですが、ご自身もご家族に重い疾病があられ、介護のことや将来のことを悩まれている方でした。そして、心配そうに、噂話をあちこちに拡げておられました。

噂話が拡がって、私のところにまでやってきたとき、「私がご本人から聞いているのは〇〇ということです。それ以上はご本人からは聞いていないからわかりません。きっと、一番ご不安なのはご本人でしょう。周囲があれこれ話すものではないでしょう」と言いました。

私に話しかけてきたその方は、まなざしがぴりっと引き締まり、「そうですね」と言って、それ以上、噂話をするのをやめました。その方は、数年前にある手術をされていました。

他者の痛みは、ときとして自分の痛みを忘れさせる麻薬にもなります。そのようにして、自分の痛みを受容することを巧妙に避けてしまうことがあるように思います。

他者の痛みに触れるというのは、その人と同じようにわかることはできないのだけれども、こちらも一緒に傷つくような体験のように感じています。

私が水を差した方の表情が引き締まったとき、私はその方の中にある倫理を感じました。そういう倫理が、誰の中にもあると、信じたいものです。

自分の心の奥にある痛みは、なかなか言葉にできないもの。それは、周囲が勝手にこじ開けたり、土足で踏み入るものではないように思います。

それが開かれてゆく場として、今後も、当相談室はありたいと思います。

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