そして最終日にーー倒産する出版社に就職する方法・第28回
わが耳を疑った。
聞き間違いであってくれ、そう願った。
だから、一度目は聞こえなかったふりをした。
「えっ? なんですか?」
いかにもケータイの電波状況が悪い風を装った。いっそのこと今この瞬間この地域一帯で電波障害が起こらないか、そんなことも念じた。
その声はもちろん届いていた。
耳に、ではなく、心臓に。そしてそのまま私の半身を突き破り、事務所の床に散らばり落ちた。
「はじめに、ぜんぶ描きなおしたいんだけど」
「えっ? なんですか?」
念のため、念のため……わずかな可能性にかけて、もう一回だけ聞こえないふりをした。
やつがその間に心変わりなどするはずもない、そんなことはよくわかっているはずなのに。
「だから! はじめに、全部描きなおしたいの!」
声のボリュームが一段あがった。
本気だ。
もう逃れられない。
私は覚悟を決めた。
「あぁ、ちょうどよかったぁ。じつは今、私もそれ言おうと思ってたとこなんです」
もう、どうにでも、なれ。
8月30日、9月新刊『買いものは投票なんだ』は作業の最終日を迎えた。
いや、迎えるはずだった。
絵を担当する「ほう」こと長澤美穂氏からあがってきた原画をデザイナーがページのかたちにレイアウトして、その上に文を担当する藤原ひろのぶ氏が作った文章を載せていく。
その後、デザイナーがイラストと文章との位置を見栄えよく調整し、文章表現を藤原氏がさらに磨き上げ、同時並行で長澤氏がイラストの部分的な修正を行なっていく。
これが今週行なわれていた作業である。
藤原氏と長澤氏の修正をまとめてデザイナーに戻し、ふたたびデザイナーからあがってきたレイアウトを二人に送って確認してもらい……今週に入ってこの作業を反復する中で、本の完成度は確実に高まってきた。
デザイナーがレイアウトを固めきった段階で、「完全データ」という形式で印刷所に入稿する。これが作業の終わりとなる。
本来なら、ここから書籍で実際に使う用紙を使用して「色校」をとり、全体を通してイラストの色味をチェックすることになるのだが、この連載をお読みの方ならご存じのとおり、本書のスケジュールにおいて「本来」などもはや存在しない。
緊急事態条項にのっとり、先週、原画が12枚来た段階で、原画のみを先んじて色校に出す、という荒業に打って出て、すでに色校は済ませてある。昨日歯磨いちゃったから、今日はもう磨かなくていいよね?方式である。
つまり、本日の完全データ入稿が作業の完全終了を告げることになるのだ。本来ならば……。
作業の終了を目前にした昨夕(8月29日)、藤原氏と長澤氏から「はじめに」の文章とレイアウトを大幅に変更する指示が届いていた。
編集的な観点からも妥当と判断した私は、デザイナーにその旨を依頼した。
「最後ですから、これがホントの最後。なんとか明日朝までにあとひと踏ん張り……」
入稿日前日での大幅な変更に、いつもは穏やかなデザイナー氏も眉根を寄せているのが電話口から伝わってきた。
果たして今朝、デザイナー氏は昨夕の指示を忠実にデザインし、リミットに間に合わせてきた。
私は入稿へGOサインを出し、全40ページ分のデータが印刷所に送られた。
本文が決着し、次なる関門=カバー(表紙)制作にとりかかる。
……はずだった。
「やっぱり『はじめに』をレイアウトでごまかすのは納得いかない。ここまで来たら、納得の行くように『はじめに』をイチからすべて描きなおしたい」
「……そうしましょう。……ここまで来たら、100%納得するまでやりきりましょう……」
そう言って電話を切った私の胸に次々に去来するさまざまな顔。
眉根を寄せるデザイナー、ため息をつく印刷所の担当者、苦笑いの製本所の担当者、茫洋たる表情のサイババ……走馬燈のラストにやってきたのは23年前亡くなった祖母だった。
天国のばあちゃん。
長澤、はじめに、描き直すってよ。
(つづく)
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