人はなぜ「自由」から逃走するのか

前回取りあげたハイエクの自由に関して、仲正は以下のように述べています。
 
 社会哲学者としてのハイエクの一貫した課題は、”必ずしも合理的ではなく、自分自身が常に制御できるわけではない個人”、”あまり強くない個人”が自由に生きることを可能にする「大きな社会」のメカニズムを明らかにし、それを守っていくことであったといえる。 

『いまこそハイエクに学べ』227頁

「大きな社会」のメカニズムは、利害を共有している「小さな社会」の価値観をカッコに入れてつくられ、「相互に働きかけ合い、必要に応じて協力し合う」ことの帰結として、進化する「振る舞いのルール」として維持されなければならない、という自由の追及を目指しています。それは「設計主義」を回避することであり、上からの設計の強制につながる「ソ連型社会主義」を否定する論理でした。

それに対してフロムは、「からの自由」という「消極的自由」を与えられた諸個人は、寄る辺のない不安から、「自由から逃走」する、と述べています。これは、下からの民意の反映によって成立する「ファシズム」により当てはまります。

 問題は、共同体的な絆の解体による「消極的自由」の拡大が、個人の孤独をも増大させたことである。プロテスタントの教えが、単独で神と向かい合うべきことを強調したことが、カトリック的・封建的共同体にしばられてきた個人にとって解放であるとともに、自分の無意味さと孤独を一層強く感じさせられる状況を生みだしたことは、何となく納得しやすい。 

93頁

教会を権威として、それに従い、信仰することで救われるという感性があったのですが、ルターの宗教改革により、聖書を拠り所として諸個人が神と直接向き合い、〈教会の権威を否定し、各人に信仰者としての自由と独立を与えた〉(63頁)ことにより、自由とともに、孤立をもたらしたのです。そしてそれは、〈ルターや彼の教えに共鳴した人たちは、合理的に信じる根拠があるから信じるのではなく、自分自身をめぐる不安から逃れるため、神の恩寵を”信じている”〉(66頁)という状況を招きました。そしてその不安は、自分の立場を脅かすものへの「敵意」としてあらわれる、と言います。

 中産階級のうち、勃興する資本主義経済の恩恵を受けられず、むしろ競争に負け没落しつつある人々は、仲間の成功者を妬むようになる。彼らは基本的には保守的な階級であり、革命的な変動を望まないので、恨みに満ちて爆発寸前の人たちや権力の頂点を目指す人たちに比べると、「敵意」を表に出さず、抑圧する傾向がある。
 しかし、意識の表面から排除された「敵意」は消滅することなく、無意識の中に蓄積され、彼らのパーソナリティに影響を与えることになった。
 フロムに言わせれば、ルターやカルヴァンはそうした社会全体に浸透していた「敵意」の権化である。彼らは、歴史上もっとも憎しみにとらわれた宗教指導者であると同時に、「敵意」に満ちた教義で、「敵意」に駆り立てられた人々に訴えかけた。(略)自らの秘めた「敵意」を、神に投影していたのである。 

80・81頁

時流に乗れずにとり残された、という感情に支配されて、不安にとらわれ、不満を抱くことになり、表出されない「敵意」を生みだす、と言います。そしてそれは、〈神は社会の現状に不満を抱く人々に代わって、罪人を容赦なく罰してくれる〉(81頁)という「教え」に逃げ込むという「消極的信仰」につながります。

これのあらわれとして、サディズムとマゾヒズムをとらえています。サディストとマゾヒストは、サディズム的行為によってお互いに依存し合っている、という指摘がなされ、〈第一次的な絆を失ったゆえの根源的な孤独と不安を、神のごとき大いなる力に全面的に服従することで埋め合わせようとする。その際に、自己を捨てることでマゾヒズム的衝動を満たし、その力の代理(のつもり)になって他者を攻撃することでサディズム的な衝動を満たそうとする〉(156頁)と言います。

それは〈私たちの多くは、自発性を発揮したという経験が乏しく、積極的な関係を知らない。相手を手段として利用する、互いの人格を認めて相互に高め合うという本来の「愛」の関係を知らない。自らの本性に合った創造的な「仕事」によって社会に貢献したり、共同体の政治的生活に参加したという経験もない〉(196頁)からだと述べています。ここでいわれている愛の関係とは、能力と人格を認め合うことにある、と言ってもいいでしょう。それは、〈匿名の権威のようなものに振り回されることなく、自発的に立てた目標を追求し続けたという体験〉(同)を経て「積極的な関係」は実現可能になる、と考えられます。

ハイエクは、設計主義を上からの「ソ連型社会主義」という自由を損なうものだとして、「消極的自由」に重きを置きました。対してフロムは、絆を失ったゆえの孤独と不安から「権威」に支配されたり、同一視したりして「権威」へと逃走する下からの勢いに危機を認め、「積極的自由」を重視しました。ハイエクのいう「消極的自由」が前提としてあり、そのうえでフロムのいう「積極的自由」の実現がなされる、ということになるのかもしれません。

仲正昌樹『人はなぜ「自由」から逃走するのか エーリッヒ・フロムとともに考える』KKベストセラーズ 2020

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