家族と国家は共謀する

集団というものを考えるとき、そこには権力といいますか、求心力による「まとまり」を維持している状態にある、と定義できるように思われます。身近なものとしての「家族」から「国家」まで、それは政治力により維持されています。

「法は家庭に入らず」という明治民法(明治三一年施行)の精神は、戦後の民法にそのまま引き継がれている。家族は愛情によって結ばれているのであり、そこには法的拘束など必要ない、という観点に立脚しているからだ。(略)
 法的規制が及ばないということは、言い換えれば家族は無法地帯ということになる。(略)親や夫はやむを得ず「手を上げる」のであり、スパルタ教育や亭主関白は美名とされ、彼らは加害者と呼ばれることはなかった。(略)家族を束ねる家長の立場に立てば、家族の中に「暴力」など、はじめから存在しない。

45-46頁

そこまでのあからさまな「家庭内暴力」は減ってきていますが、いまだに悲惨な「虐待」や「DV被害」は後をたちません。おそらく無意識に「法は家庭に入らず」という原則が刷り込まれていて、家族は国家とは別のルールが支配している、のかもしれません。

同じようなことは一九八〇年代のアメリカで、戦争被害のPTSD被害に関してもふれられています。

アメリカの男性たちは戦争で勇敢に戦ったゆえに精神的被害を受けたのだから、それは保障されるべきだが、家族に対して彼らが暴力をふるうはずなどなく、あくまでそれは私的なこととして国家補償の対象外とするのだ、と。

209頁

これは、〈国家をささえる軍事イデオロギーを守るために、国家を支える家族のイデオロギーを守るために、戦争神経症も性虐待もないものとされなければならない〉(219頁)ために生じた「見えない化」現象だ、といえます。

つまり、もっとも私的でもっとも見えにくい家族で起きていることは、国家で起きていることと連動しているのだ。(略)家族は国からも他者からも侵入されないユートピアなどではなく、もっとも明確に国家の意思の働く世界であり、もっとも力関係の顕在化する政治的世界なのかもしれない。

221頁

そこでは、イデオロギーとしての国家をささえるものとして、ユートピアとしての家族イデオロギーを聖域化して温存している、という共謀関係が見られます。結果として、家族と国家は共謀して被害者を被害者であるままにしている、といえます。

これらの権力による暴力に対して、加害者・被害者双方からの抵抗《レジスタンス》に希望を見いだします。それには「想起」が必要である、といいます。

 想起はそれほどたやすいことではない。なぜなら、想起とはそれを語ることと同義であり、語るためには文脈化し、時間の流れに沿って経験を再構成することが求められるからだ。

170頁

被害者は被害と向き合うことで「被害者である」という規定からはみ出せるし、加害者は加害行為と向き合い続けることで、被害側と共通の地平に立てることになり、両者は「心的外傷からの回復」をたどることが可能となります。そして、このレジスタンスは、政治集団の暴力に対して、有意義な手段となりえる、といいます。

たとえとして、伊藤詩織の『Black Box(ブラックボックス)』での性被害の告白があげられています。同書の内容は冷静に読めば、第三者にとって真偽を確かめられるものではありません。しかし、被害にあったと認識し認め、それを表明するというのは、その行為自体が承認され波及を呼び覚ますもの、という意義をもちます。

信田さよ子「家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』
角川新書 2021

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?