仏教思想のゼロポイント

〈ゴーダマ・ブッダがこの経験をしたことが、仏教の「始点」になったという意味での「ゼロポイント」である〉(160頁)。「この経験」とは、伝承で、ブッダは菩提樹の下で悟りを開いた、とされていることを指します。そういう意味では、ゼロポイントは、視点であるとともに完成形であるともいえます。

では、何を悟ったのでしょうか。いうまでもなく、「煩悩から解脱して涅槃に至る」経験を得た、ことです。

その煩悩とは、について引用します。

偈を喜んだバーラドヴァージャが乳粥を鉢に盛って差し出すと、ゴーダマ・ブッダは「私は詩を唱えた報酬として得たものを食べてはならない」と言って、その乳粥を捨てさせる。

25頁

報酬を拒みます。報酬とは、なんらかの働き(労働)の価値を認められて払われるもので、そこでは労働(原因)報酬(結果)という因果関係が成立しているのです。そして、それは、結果を求める「欲望」が前面に出る、煩悩のもとになります。

 偈の中でも、彼の方は「貪欲に染まり、暗闇に覆われた者には見ることができない」と述べられているが、そのように盲目的に何かを欲望する傾向性をもつからこそ、人々は異性を求め、より豊かな暮らしを求める。そしてその希求が生殖と労働という人間の普遍的な営みに繋がって、それが関係性を生みだし社会を作り、そこで私たちの「人生」が展開する。

31頁

人間は「何かに欲望する傾向性」をもつから、それに流され、とらわれ、それが煩悩になる、ということでしょう。

インド思想の文脈においては、行為というのはそれが済めば完結するものではなく、それは後に結果をもたらす潜在的な余力(潜勢力、potential)も残すものと考えられたから、そうした潜勢力まで含めた「行為」や「作用」のことを、「業」と呼称しているわけである。その意味で、「業」というのは一般に、「後に結果を残すはたらき」であると考えておいても、さほど間違いではないだろう。

56頁

インド思想では「輪廻」という考え方があります。輪廻転生という言葉にもあるように、前世の因果で今生の生まれが決定される、というものと一般には考えられています。

 衆生が業と煩悩という条件に束縛されて、苦なる輪廻的な生存状況に陥っているのも、そこから渇愛という原因を滅尽することで、解脱に至ることができるのも、全て「物事は原因・条件があって生起する」という、縁起の法則に基づいた話である。

61頁

しかし、ここでは「輪廻的な生存状況」といわれているように、いま生きているこの生に限られて適用されています。そして、輪廻とは先の引用での「業」の定義にしたがえば、後に結果を残すはたらき、によりもたらされるものになります。

輪廻は「縁起の法則」にもとづいたものであるから、煩悩を生みだすものだとされているので、解脱のためには、否定されなければなりません。そして、輪廻は現世におけるものでしたから、その人のおかれている地位や立場も、その根拠を失い、無価値なものとされます。

魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』新潮社 2015


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