イスラム教の論理
イスラム教では、コーランとハディースというテキストを拠り所とした「イスラム法」に従うことを課せられていますが、この経典をもとに「法」が成る、ということが、私たちの理解に苦しむところなのです。
「理性は啓示のような判断の源ではなく、啓示から判断を導出するための道具」というのは結局、理性による判断によらなければ、啓示は意味を持たない、となりそうですが、啓示を道徳と考えれば、いいのかもしれません。
たとえば、「嘘をついてはいけない」という道徳がありますが、悪者に追われて助けを求めてきた人をかくまい、悪者に「居所を知らないか」ときかれたら、嘘をついて「知らない」と答えるのが、(弱者に寄り添うという)道徳にかなった行為である、といえる、というぐあいに。
コーラン第2章256節「宗教に強制なし」と第5章90節「あなたがた信仰する者よ、まことに酒と賭矢、偶像と占いは忌み嫌われる悪魔の業である。これを避けなさい」とについて、〈一見矛盾していると思われる部分はすべて調和し整合性が取れているのだ、というのがイスラムの論理で〉、〈それが矛盾しているように見えるのはもっぱら人間の浅慮によるものだと考えられています〉(206頁)。
これは、日本国憲法第九条の議論と比較すればわかりやすいでしょう。アゴラより篠田英朗の見解を参照します
憲法前文にある「国民の信託」というのが唯一の原理であり、そのうえで平和という目的を求めている、とも述べています。
イスラームでの原理は「神」による啓示、にあるのですが、その神の真意は人間の浅慮では、手の届くものではありません。それを「法」として体系化するか「信者の解釈」にゆだねるのか、という選択になります。
かつてはエリートにより、独占的に統合されていたものが、信者個人が直接テキストに触れることが可能となり、当然各信者は、法学者のように多くのテキストについて考察していません。そして部分を切り取って、都合の良い体系化をする者があらわれるのは、多くのケースで見られます。
飯山陽『イスラム教の論理』新潮新書 2018
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