イスラム教の論理

イスラム教では、コーランとハディースというテキストを拠り所とした「イスラム法」に従うことを課せられていますが、この経典をもとに「法」が成る、ということが、私たちの理解に苦しむところなのです。

 イスラム法は人間生活のすべてを規定していますから、やらなければならないことや、やってはいけないことも、すべて定められています。(略)何が善で何が悪なのかの判断に迷ったり悩んだりする必要はありません。イスラム教は、ものごとはそれ自体としては善でも悪でもなく、神が善としたものが善であり、悪としたものが悪なのだとする立場をとります。(略)イスラム教においては、理性は啓示のような判断の源ではなく、啓示から判断を導出するための道具であると見なされています。

204頁

「理性は啓示のような判断の源ではなく、啓示から判断を導出するための道具」というのは結局、理性による判断によらなければ、啓示は意味を持たない、となりそうですが、啓示を道徳と考えれば、いいのかもしれません。

たとえば、「嘘をついてはいけない」という道徳がありますが、悪者に追われて助けを求めてきた人をかくまい、悪者に「居所を知らないか」ときかれたら、嘘をついて「知らない」と答えるのが、(弱者に寄り添うという)道徳にかなった行為である、といえる、というぐあいに。

コーラン第2章256節「宗教に強制なし」と第5章90節「あなたがた信仰する者よ、まことに酒と賭矢、偶像と占いは忌み嫌われる悪魔の業である。これを避けなさい」とについて、〈一見矛盾していると思われる部分はすべて調和し整合性が取れているのだ、というのがイスラムの論理で〉、〈それが矛盾しているように見えるのはもっぱら人間の浅慮によるものだと考えられています〉(206頁)。

これは、日本国憲法第九条の議論と比較すればわかりやすいでしょう。アゴラより篠田英朗の見解を参照します

日本国憲法前文には、次のような文章がある。
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」
(略)
9条で戦争放棄を宣言している時点ですでに、国民は13条の幸福追求権を持っているはずだ。13条は後付けで9条に例外を加えるための規定ではない。むしろ13条の権利をより一層強く守るために、平和を求める政策が求められ、その手段として9条の規定が定められている、と解釈すべきである。

https://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda

憲法前文にある「国民の信託」というのが唯一の原理であり、そのうえで平和という目的を求めている、とも述べています。

イスラームでの原理は「神」による啓示、にあるのですが、その神の真意は人間の浅慮では、手の届くものではありません。それを「法」として体系化するか「信者の解釈」にゆだねるのか、という選択になります。

かつてはコーランと数十万から数百万のハディースを暗記したイスラム法学者だけが独占する「高尚な知識」でした。それらを解釈することにより神の意思が何であるかを特定することは、彼らの保持してきたいわば特権でした。しかし一般のイスラム教徒の識字率上昇に加え、規範テキストがデータ化されインターネット上で誰でもアクセスできるようになった今、情報は独占から解き放たれてオープンになり、どんなイスラム教徒でも自ら典拠を示し、イスラム教について持論を展開する自由を得たのです。

54頁

かつてはエリートにより、独占的に統合されていたものが、信者個人が直接テキストに触れることが可能となり、当然各信者は、法学者のように多くのテキストについて考察していません。そして部分を切り取って、都合の良い体系化をする者があらわれるのは、多くのケースで見られます。

飯山陽『イスラム教の論理』新潮新書 2018

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