日本国民であるために その1

1 割り込みをすることは悪いことか。
2 選挙で自分に投票することは「ずるい」ことか。
3 無関心ではないのに、政権にも、政権に反対する人にも賛成も反対もできないことは認められるか。
4 過去の日本人の罪を現在の日本人は謝罪しなければならないのか。

これら四つの問いを、著者は〈まだ答えられていないふつうの問いを、ただ普通に問うてみ〉ることをとおして、〈日本という国家の特殊なあり方〉を〈浮かび上が〉らせようと、とりあげています。

まずは、憲法をもつ国の原則から始めています。各人の保持している自然権が、まず優先されるのですが、しかしそれでは、わがままがぶつかり合う「万人による万人の闘争」(ホッブス)状態になるため、その一部を国家による制限を受け入れる、という「社会契約」としての憲法のあり方です。

統治がうまくなされているかぎり、私は制限された自然権を、すなわち「公共の福祉」という制限付きの自然権である「基本的人権」を享受することができる。(……)それは私の「私的な世界」を形作っている。
 国家を構成するすべての人の「私的な世界」を確保するために選ばれたのが、統治者である。(……)だから、統治者が結集された力を行使することは、構成員すべてに関わるという意味で「公的な世界」の行為である。したがって、当然のことながら、「一般国民」が統治者を選ぶことも、統治者が暴走しないかどうか注視することも、そして暴走した時に抵抗権を行使することも、すべて「公的な世界」の行為である。 71頁

つまり、これは〈私の中には「私的な世界」の私と、「公的な世界」の私がある〉と説明しています。そこから次のような見解を導きだします。

 社会契約は人々が各々の個別意志によって結ぶが、ひとたび社会契約が結ばれると、各々の個別意志は「統治される者」の意志になる。しかし、それが「統治される者」の意志であるためには、社会契約によって生み出された一般意志が「統治する者」の意志として先行していたことが見出されなければならない。(……)
 日本国憲法で言えば、「統治する者」が「国民主権」を「宣言」しなければ「統治される者」が日本国民であることができない以上、「統治する者」としての日本国民が「統治される者」としての日本国民に先行していたことが見出されなければならない。しかし、その「統治する者」が見出されるのは「統治される者」が生まれた後でしかない。134頁

ややこしいですね。「統治する者=私たちとしての私=公的=一般意志」に対して「統治される者=私としての私=私的=個別意志」と整理すれば、少しは理解の助けになる、と思います。かつて、ロラン・バルトが言っていた「恋する私は狂っている。そう言える私は狂っていない」という言葉が連想されました。「狂っている=個別意志」、「狂っていない=一般意志」ということです。その両者が矛盾のうちに共存しているというのが、私たちのおかれている「民主主義」なのです。

しかし、統治される者だけでなく、統治する者でさえも、自身の利益を重視する「個別意志=私的世界」に重きを置くとなると……。

言い換えるならば、〈「統治する者」も「統治される者」も、「みんな」という主体になりかわ〉(156頁)るということであって、その〈「みんな」というのは「部分社会」にほかならない。だから、「みんな」や「私たち」を作れば作るほど、それを盾にとればとるほど、一般意志から離れていくことになる〉(157頁)となります。意見や見解の一致する者だけを集めて、いくつもの「部分社会」が個別に存在しているのです。

先ほどのバルトの言にしたがえば、「恋する者は個別的であるけれども、その違いを超えて、狂っているという一般意志は共有されている」ということにならなければいけないところが、狂っているという認識をもてない、ということです。

互盛央『日本国民であるために 民主主義を考える四つの問い』新潮選書 2016

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