the idolの社会学

果たしてthe idolは「YouTube」なのか。
現在の発信媒体がYouTubeなだけで、テレビが買ってテレビで流せばテレビ、配給会社がついて映画館で流せば映画、Netflixが買ってNetflixで流せばNetflixなのである。
よって、the idolは「事実」でしかないのである。
乱立する映像の世紀に、媒体の概念を越えた「事実」として我々はthe idolを目の当たりにしているのである。

テレビ番組の制作を生業としている私から見て今回のthe idolには心を打たれる理由があった。

「番組制作というのは、自分のためではなく全て視聴者のため、そのためには自分のやりたいことは押し殺せ」と教えられてきた。

しかし自分のやりたいことを面白い人たちとやり、人を楽しませられるという、夢のような番組がここにはあった。
私が8年前の入社当時に感じた違和感を見事に吹き飛ばしてくれたのである。

ただ、しかしここには大きな必要条件があることが分かった。
それはkento fukayaPが芸人として積み重ねてきた10年があるからできるのであり、会社員であるテレビマンがどうやっても辿り着けない領域の番組制作を成し遂げたのである。
ネタ、トーク、大喜利、企画ライブ、そしてR-1の連続ファイナリストの実績も全て含んだ上で映像をみんなが見ているのである。

そして協力してくれる出演者。しかもお互いに面白いと思い合っている人たち。これも10年の芸歴が積み重ねてきた功績で、その地層の上で番組が走っているのである。
これは信頼関係は、どうやっても手に入れることができないものであり、そんな仲間たちと一緒に番組を作れることこそ最も尊いのである。
長くテレビ番組制作を続けても、この経験ができずに職務を終えていくテレビマンの方が圧倒的に多いだろう。

そしてそれを応援してくれるファンの方々。
テレビは特にファンの顔が見えず、「推し」の概念が分かりづらい。
YouTubeというメディアが最も、出演者ごとの「推し」が伝わりやすく、さらに推しメンの応援のために番組自体を推すことに繋がるという仕組み。これがYouTubeというメディアを選択したことの利点だったのではないかと考える。

作りたいものを作るという今もはやYouTubeですら忘れかけている映像制作の真髄であり、アート。

テレビが今の分業制の仕組み、監査機関や数字に捉われた制作を続ける以上、金輪際出てこない番組であったと思う。

ちなみに言うと、僕が最もやりたいと考えていた、「連載企画」。これをやっていたことも非常に感銘を受けた点である。
昔、関西の深夜のロケ番組ではよくあった、毎週続いている企画。
しかし現在は低予算で即戦力となる番組が必要なため、1〜2回の放送で判断される。数字が悪ければ別の企画に切り替える。様々な企画をやってみて最も良かったものを繰り返す。
この方法論が定石化してきたため、新規の連載物が現在テレビには圧倒的に少ない。それに憧れてテレビに入った身からすれば本当に衝撃的な連載であった。

そしてテレビの業界ではプロデューサーといえばお金の管理や人の管理、コンプライアンスチェックやキャスティングなどの役割を担うことが多く、本当の意味でのプロデュースをする人としてのプロデューサーを正直今までなかなか目にしてこなかった。
kento fukaya Pこそが真のプロデューサーであると私は思う。

ゆえに震撼と同時に安堵したのは、kento fukaya Pが同世代でテレビマンとして働いていないことである。
もしテレビ局に入社していたら今頃スーパーエース、確実に目の上のタンコブになっていたと思う。

この有り難みと喜び、そして不安と期待を胸に5月27日の新曲披露のライブ配信を待つばかりである。

the idol〜episode final〜 
https://youtu.be/4f5GHOBe9HM

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