同じ"モノ”を見ても同じ”世界”を見ているとは限らない -錯聴の話から-

そもそも人間の知覚というのは、単純に感覚器官(目、耳など)の入力のみを指すのではなく、感覚入力に文脈や背景を統合したもののことを言うらしい。単純化すると、”知覚=感覚入力+文脈or背景”と表記していいのかな?そうは言っても、日常生活の中でそのことを実感する機会はほとんどない。

錯覚というのが知覚における文脈や背景の重要性を実感できる身近な例らしい。最近、錯聴(耳の錯覚)と呼ばれる面白い錯覚について知る機会があったので共有したいと思う。

錯聴については実際に体験するのが一番面白いと思うので、ぜひ下のリンクからやってみて続きを読んで欲しい。まずは「連続聴覚効果」から。

この分野は専門外なので詳しい原理などについて述べることはできないが、とりあえず驚くほど滑らかに聴こえませんか?自分が思っていたよりも、聴覚というものは騙されやすいものらしい。

次は別の錯聴である「モザイク音声(劣化雑音音声)」を体験して欲しい。今回の記事のタイトルである「同じ"モノ”を見ても同じ”世界”を見ているとは限らない」はこの錯聴を経験して私が感じたことである。

「モザイク音声」を体験したら分かると思うが、最初にAを聴いて何を言っているか全く分からなくても、一度Bを聴いてしまうとそれ以降はAでの音声を”聞き取れるように”なってしまう。
つまり、一度Bを聴いてしまう(知ってしまう)と元のAを聞き取れなかった状態(世界)には戻れない。

この「モザイク音声」の体験から、自分ではその”現象”を”意味のある世界”として知覚できないものでも、他の人にとっては”意味のある世界”なのかもしれない、と思うなどしました。

そういえば、私は高齢者(方言を使っていなくても訛りが強い人)の話を聞き取るのがめちゃめちゃ苦手である。本当に何を言っているのか分からないときがあり、自分の耳がとても遠くなったように思える。しかし、若い人と話すときにはそれを感じたことがない。これは、もしかしたら「方言や訛り」に対する「背景や文脈の不足」に起因するのかもしれない。

そう考えると面白いですね。地味に聞き取れなくて支障があるときもあるんですけどね……。


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