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人間らしく生きる〈基本行為〉の本質

2023年度 山岳新校みちのりプログラム 参加者コラム
:鈴木 聡

縁あって「山岳新校みちのり」2023年度秋期対面プログラムに参加したが、それから半年が経った。

人間に対してであれ自然に対してであれ、自分から無理なく行動を起こせる場と、その場に自身を委ねて生きていける器量を手に入れる必要性を痛切に感じる日々を送っている。

自分をケアしながら生活する、他者と関わる、人間社会と向き合う、自然や歴史に触れるといった行為を本稿では〈基本行為〉と呼ぶことにするが、この〈基本行為〉が人間らしく生きる上で重要と捉えている。これらの行為にどこかで前向きになることは、自分にとっての「ナリワイ」や「イドコロ」や「撤退先」を見つける上で必要条件ではないか。

プログラムを通して認識したのは、これらの行為の中で問題に直面すると途端に思考も行動も止まってしまう自分の姿であった。

〈基本行為〉が自然にできるようになるためには、自分にとってままならないことを受け入れる余白をつくることと、自分がなすべき最低限を見極めることが必要となることは「ナリワイ」探しの中でも強調されている。これらは自分をとりまく状況が変わっても「悪くない」人生を歩む上でも押さえておくことが重要なのだが、余白をつくるための無駄を省き、自分にとっての最低限を見極めるセンスを磨き気力を捻出するところから始める必要があるところにも難しさを感じる。

〈基本行為〉の前提として適切に自己を肯定することを必要とするが、この肯定する自己の要素とその適切さを考えることも難しい。

私の場合は「知識を身につけ思索を深める自己」を肯定しがちで、そのような自己は容易にAIなどに代替できてしまうと思うと肯定する要素としては弱過ぎる。

ただ私は「自分は自分として生きているだけで価値がある」という境地に至れないので、人間として生活する自己の中で何を肯定するかを問い続けることでしか、私自身は人間としての自己を維持することはできない気がしている。

「山岳新校みちのり」と私自身の問題意識から、自分にとって無理のない行動と、その行動に呼応できる場のカップリングに出会うには、自分にとっての〈基本行為〉とその本質に向き合う必要性に気づいた。

このような本質にうまく向き合わずに済む生き方もあるのかもしれないが、正面から本質を受け止めることが、少なくともいまの私には必要である。

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