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3分講談「マニキュア」(テーマ:夏休み)

小学校三年生の夏休みのこと。ひょんな事情から、母のいとこの家で一週間ほど厄介になったことがありました。

母のいとこは「煙草屋のヨリコさん」と呼ばれていました。今では余り見かけなくなりましたが、「たばこ」と書いた看板の横に窓口があって、駄菓子や日常品なんかも一緒に売っているような小さな煙草屋を営んでいました。随分昔に一度、隣町に嫁いだそうですが、今はこうして、親の遺した店を一人で細々と守っていました。ヨリコさんは、当時三〇代の半ばくらいだったでしょうか。美人ながら化粧気のない細面に長い髪。口数も少なく、どこか浮き世離れして捉え所のない人でしたが、それがかえって私には居心地よく感じられました。


滞在初日の朝。朝食を終えるとすぐにヨリコさんは店番に出てしまいました。後に残された私は、午前中は学校の宿題をして過ごし、昼からは本を読んだり、海へ行ってみたりしました。夜は夕食を終えると、もうすることがありません。テレビを見てお風呂を済ますと、早々と布団に入りました。
どのくらい経ったのか、玄関のドアが開く音がして目を覚ましました。ガチャリ、と外から鍵をかける音がしました。時計を見るともう十二時を回っています。ヨリコさん、どこへ行ったのだろう。気になりながらもその日は眠ってしまいました。次の日も、また次の日も、ヨリコさんは夜中にどこかへ出かけてゆくようでした。(①)


四日目の夜。ヨリコさんが出かけたのを見届けると、そっと彼女の部屋に入りました。ツン、と薬品の匂いが鼻を刺しました。電気をつけると、鏡台の上に、マニキュアの瓶が並んでいます。鮮やかなオレンジ色、深い緑色、くすんだピンク色。私は、見てはいけないものを見た気がしました。なぜなら、ふだんのヨリコさんは、マニュキアなど全く塗っていないからです。とっさにすぐに部屋を出ましたが、布団に戻ってからも、マニキュアの匂いはなかなか、鼻の奥から消えませんでした。(①)


滞在六日目が過ぎ、明日には母が迎えに来るという、最後の夜のこと―。いつものように夕食を終えてテレビを見ていると、ヨリコさんが珍しく、隣に座って言いました。「ねえ、マニキュア塗ったことある?」。私は冷や水を浴びせられたようにびっくりしました。この前、勝手に部屋に入ったのがバレたのだろうか。「ううん、ないよ」。「じゃあ塗ってあげようか」。
ヨリコさんが持ってきた瓶には、海のような鮮やかな青色の液体が入っていました。「手を出してみて」。瓶を開けると、この前の夜と同じ、薬品の匂いがします。私は、海の色に染まって行く自分の爪の先を見つめたまま、恐る恐る尋ねました。「…ヨリコさんも、マニキュアを塗ることがあるの?」「…うん?たまにね」「どんな時に塗るの?」「…それは内緒」。そう言って顔を上げたヨリコさんの大きな目に、射すくめられるようでした。思えば、彼女としっかり目を合わせたのは、それが最初で最後だったかもしれません(①)


その数年後、ヨリコさんは亡くなりました。夜中にどこへ行っていたのか、今となっては、確かめる術もありませんが、夏になるといつも、あの秘密めいた夜のことが思い出されます。

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