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伝わって。

自分の言いたいことなんて全部言語化して相手に伝わらない。当たり前のこと。
ときどき自分の文章を読み返すことがある。
そしていつも、「どうして○○と書かなかったんだろう。これじゃあ自分のことと全く違うじゃないか」と不安になる。
友達と話しているときもそう。会話で自分の意見を言ったとき、「今日自分が言ったことであの子が不利益を被ったらどうしよう。」っていつもその日は引き摺って考えてしまう。


私は私の言ったことに責任を持ちたい。
たとえ自分の意見が間違ったもので相手に伝えてしまっても。それが人と関わった者の最低限の義務じゃないかと思う。
責任を負えないようなものには口を出してはいけないし、仮に自分の能力不足であってもそれを自覚して、素人意見で恐縮ですがという態度で論じたいものである。
人に自分の考えを伝えるのがダメじゃない。互いに主張しあうからこそ自分ひとりではたどり着けなかった領域に至ることが出来る。
だから私は主張することは辞めない。

けど人に伝える上で、相手にそれが伝わるかどうかは別問題なのが難しいところ。
自分が責任をもって論じても、相手に全く違う方向で届き不利益を被ることは必ずある。それで責任を負うことを求められても、相手が自分と全く違う受け取り方をしていると分かったら、どんなに受け取り方は人それぞれだと分かっていても自分が全ての責任を取ることに抵抗を覚えるのは仕方がないと思う。
だから自分の発言に責任を持つ以上ある程度の受け取り方の違いも含めて責任を持たねばならない。これが一番難しい。
そして、全く違う受け取り方をされるのを恐れるからこそ相手に自分の考えが全部伝わってほしいと保身の気持ちが芽生える。

けど、保身のためにすべてを伝えようとしても気づかぬうちにそれ自体が相手に嫌がられてしまう。
だから相手に伝える言葉を絞らなきゃいけない。

まとめると、「自分の意見に責任をもって考えを伝えるには限られた言葉に絞って、補足の少ない言葉から生まれる受け取り方の違いも含めて責任を負うと決めて発言しなければならない。」という風になると私は思う。

文章を書くのに長けている人なら受け取り方の誤差の少ないように論じれるだろう。
でも私はそんなことできないので、どうしても人に申すこと自体を減らしてギリギリ責任を負える範囲だけで意見する方へ逃げてしまう。
自己中だけど自分が言ったことで感謝されるのは嬉しく快感であり、それをやめることなんて出来ないと思う。
だから伝えることが上手くなりたいし、もっと責任をもって相手に意見できる程の自分の考えの蓄積が欲しい。


やっぱり自分は正しい方でいたいと思うのは辞められない。けど自分の軸を持たないことが正しいとは思わない。どんなに間違っていても少しでも自分なりの正しい方向へ向かいたい。
そうしたら自分から生まれるものに責任をもって接することが出来るかな。


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