ある飛行士の夢
少年は長椅子に腰掛け、ため息をつく。
長い時間を掛けて作った、黒く醜い浮気服を下半身だけ履いていた。
もう荷物はいらない。
家に戻ることもない。
そんなふうに確信していた。
ピンク色の空。
少年は浮気服を着込み、シャッターの外へと駆け出しだ。
ふわりふわりと浮かんでいく。
家のガレージがみるみる小さくなる。
海辺の静かな道路に、犬を連れて散歩しているおじいさんが見えた。デフォフメされた顔を上に向け、不思議そうにこちらを見ている。
こっち見るなよ…。
危なっかしく方向を変え、夕日と重なった沖合の巨大なクレーンを目指す。
輪郭がぼんやりした世界。
嫌な予感がする。
ちょっと高度を下げてみよう。
浮気服を操作する感覚がいまいち分からない。
風船のようにまっすぐ上には昇れるが、前や横にどう進んでいるのかよく分からないのだ。
…うわァッ
不意に腰を回転軸に、身体がひっくり返った。
頭が下になり物凄い速さで海面が近づいてくる。
とっさに脚を下に向けるとすぐさま浮力が戻り、
落下が止まった。
…死ぬかと思った。
高度計を見ると、ほんの10mほど高度が下がっただけだったがそれでも動揺してしまう。
仮に体勢が立て直せなかったら。
その上、もっと低く飛んでいたら。
…低空はヤバい。
意を決して意識を上へ向けた。
浮気服はすうーっと煙のように登っていく。
高度500メートル。
クレーンの上部構造物と並んだ。
ゴウンゴウンと音をたてるトラ柄の錆びた巨大クレーンは、動いてはいるが何を吊るためのものか、もう誰にも分からない。
この星では、数千年前に突如プレートの移動が止まった。
地磁気は消失し、北と南も無くなった。
海と大気は太陽風で吹き飛ばされ宇宙空間に散逸していく。
静かで穏やかな滅びの星だ。
僅かに残った海にはもうサンゴ礁はない。
旧世界の構造物が海洋生物の寄る辺となっていた。
少年はクレーンの向こうに見える陸地を目指すことにした。
ふわふわと高度を上げて、すうっと前へ進んだ。
滑空するように降下しながらその何倍も前へすすみ、ときおりまたふわふわと高度を上げる。
…浮気服の浮力が落ちてる。
陸地に着くと、地面を飛び跳ねるように進んだ。
悲しいことが待っているような気がした。
浜辺のオオハマボウの藪を飛び越えたあたりで、浮気服の浮力は、もはや身体を浮かせられなくなっていた。
海沿いの道路をなんとか前へ進む。
半端に残った浮力のせいで地面がうまく蹴れず、走る事もままならない。
疲れたな。
視界が夕焼けの白色に染まっていく。
薄れゆく視界の中で、判断力が徐々に覚醒していく。
あーあ…やっぱりこれ夢か。
----------------------------------------------------------------------------------------------
目覚ましより早く目が覚めた。
くそぅ、空が飛びたいぜ。
周囲の建物よりひときわ高い、安アパートの最上階で、私は強くそう思った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?