インターネット、正当な理由、オーバーキル

人間が集まると必ず揉め事が起きてしまいますね。インターネットは人間が無制限に集まるので永遠に揉め事とオーバーキルを繰り返しています。

私はこの一年ほど、ゲーム薄暗ポッドキャストというゲームのことを話すポッドキャストをやっているのですが、その界隈でもやはり揉め事は発生し、その度に私の厭世ゲージが溜まっていくのを感じます。

インターネット(というよりも、ここではSNSに限定しましょう)で揉め事をやると、その構造由来の困った二つの特性が現れてしまいます。

一つは現実の大抵の揉め事に集まる人数には上限がありますが、SNSが介されるとその上限がなくなるという特性です。揉め事が起きれば観衆が集まり、その一部が参加者として加わり、より大きくなった揉め事にまた観衆が集まります。メディアの発信力やSNSの特性が揉め事を再現なく大きくします。

もう一つの困った特性は、揉め事をSNSでやると基本的にオーバーキルになってしまうということです。SNSはその構造的に、常に一対多の構図を生み出します。例え大きな二つの派閥がSNS上で対立していたとしても、そこで現れるのは多対多の対立ではなく、無数の一対多の対立です。そして、どれだけ片側に正当な、真っ当な、憤って当然の理由があったとしても、一対圧倒的多数の対立が生み出すのはオーバーキルです。ゲームでモンスターをオーバーキルすると多くの場合何らかのオーバーキルボーナスが得られますが、現実でオーバーキルを起こせば、そこに表れるのは現実を生きている誰かの人生の破壊です。

これは構造的な問題なので、揉め事の口火を切った人物がどれだけオーバーキルを起こさないように気をつけようとしてもあまり意味がありません。誰かの感情が別の誰かの感情を刺激し、その感情がまた別の誰かの感情を刺激し続けます。結果として「何も変わらない」か「オーバーキル」の両極端な結果が非常に表れやすいのだと思います。そしてオーバーキルは誰も望まない結果を生み出したりします。

なので私は何か揉め事を関わることになった場合、一対一、あるいはそれに近い状態になる場所でしか揉め事に言及しないように心がけるようになりました。(しかしこれが難しい。SNSは私たちの感情に波を立たせようと刺激してくるのですから。怒りと悲しみのSNS(X)のオススメタブがなければ私たちはどれだけ平穏な心でいられることか)

またこの話でややこしいのは、このような特性が、一方で社会問題や国、大きな企業、文化、価値観を変えていくために有用に働くこともあるということです(そしてそこにはたくさんのオーバーキルが現れるでしょう)。なのでここらへんの話はこの記事では書いてません。

正当な理由が正当な理由を超えてオーバーキルを生み出してしまう構造、嫌ですねー。じゃあ正当な理由がこちらにはあるのに我慢しないといけないのか?それも嫌ですねー。どっちも嫌だなあ。

終わり。


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