正義形成論

1.「正義はない」と言う時、1-1.「絶対的な正義は存在しない」あるいは1-2.「正義という言葉が本質的に意味するところのものは実際には存在しない」と述べている。2.「正義はある」と言う時、2-1.「絶対的な正義は存在する」あるいは2-2.「正義を意味するとみなされている、もしくは信じられているものは実際には存在する」と述べている。

ここでは2-2の意味での正義を前提に置く。

正義は二者間の関係性の中に発生する。それは対立する二者間の利害調整として機能するものである。集団における関係性が増えることで調整も複雑になる。

したがって、個々人の正義を調整するために間主観的に採択された合意が、共同体における正義とみなされる。

個々人は、共同体の間主観的な正義を教育され内面化される。それが個々人の正義として刷り込まれる。

個人の自己像は、ラカンの鏡像段階やシェーマ図を考慮すると、まず無意識の内に取り込まれた他者A、つまり間主観的な正義の観念(社会規範)が、受動的自我S(欲動)と主体的自我à(自己規範)に働きかけて、超自我(理性)を形成している。受動的自我と超自我(主体的自我+他者)は対立し、自我aにおいて防衛機制(認知行動メソッド)が働くことで調整され、個人の正義の観念を出力する。出力された正義の観念は超自我へと上書きされ、更新される。

この時、人間の主体性は、自己の超自我と受動的自我の対立を俯瞰する認識主体(メタ認知)であり、この主体性が存在する故に、個人は社会の間主観的な正義を俯瞰・懐疑・反省・相対化することができる。その際、個人の思考の志向性の幅、記憶における感覚情報の差異、演繹的思考能力の差異、言語表現における差異などがずれを生じさせ、個々人の正義の差異や偏向を生じさ、正義の観念の更新を可能にする。

以下は無意識を離れて個々人をノードとする。個人的な正義と共同体的な正義が形成される循環の過程には、時間(差延)と空間(差異)のずれが生じる。ずれの領域では、情報の偏向(志向性)や偶然性(環境変化や無意識の作用)が変化を促す。そのずれが、世代や地域ごとに正義の対立を生じさせ、正義の内容を改変(変化)させていく。

ずれは多層的に発生するので、正義の観念も母集団のスケールごとに多層的に形成される。しかも、個々人(各ノード)は集団間を行き来し、関係性のネットワークを構築しているので、この境界の線引きは動的で曖昧である。完全な孤立集団でない限り、理想的な閉鎖系の母集団を描くことは困難である。

個々人の流動性の強弱はずれの強弱を伴う。時間的・地理的な壁による隔離性が強い集団ほど他集団とのずれは大きくなる。つまり、孤立系、閉鎖系、開放系と、閉鎖性の強い集団ほど内部では均質化するが、外部とは差異が大きくなる。一方、閉鎖性の弱い集団ほど内部では均質化しにくいが、外部との差異は小さくなる。

とはいえ、どんなに閉鎖的な母集団の内部でも、個人間の正義の差異は生まれる。その一つの理由には、先述したような無意識における主体性によるずれがある。さらに、合理性の精度について思考すればするほど、さらに考慮に入れなくてはならない別の要素が次々と増大するという側面もある。

間主観的な正義が成立する基準は、個々人の持つ情動的な快不快原則と、言語(思考)の構造が持つ論理規則である。これらの基準を用いて、間主観的な合意形成が試みられる。合意形成は必ずしもバーバル的(言語的)なものだけでなく、ノンバーバル的(非言語的)なものでも成立し得る。また、直接的対話(議論)だけでなく、間接的対話(暗黙の了解)でも成立する。人間だけでなく動物たちの縄張りなども合意形成の一つである。

利害調整には平等の原理が働いている。平等の原理は、集団内の個々人がリソース(資源)を出しつつ、その利益を享受する社会システムにおいて発生する。そのような集団間では、フリーライダー的行為(適切な手続きを経ずに利益を独り占めする行為)を罰することで秩序を維持する機能が働く。とはいえ、フリーライダー的な行為は一定程度は存在するのであり、それらの作り出す社会的なずれは、社会の柔軟性や創造性に寄与する。

お互いの理想状態を両立できる状態を実現できることがベストとされる。しかし、それが困難であればお互いが平等に不利益を甘受する妥協的な状態がベターとされる。それさえも困難であれば、お互いが自分自身の利益の方を優先する。

一時的な不平等は認められ得る。例えば、贈与論では、贈与したら返礼する義務が発生している。この時、贈与と返礼には時間がかかる。贈与が循環して間接的な返礼が期待されることもある。この待ち時間において人間関係は持続し、社会の秩序は安定する。義務の放棄は搾取と呼ばれ、平等の原理に反すると見なされる。

力の強い者は力の弱い者に対して力を行使することが可能である。生まれつきの平等性は期待できないので、原初状態では権力構造(=力の論理)が発生する。この権力構造の抑止・緩和が利害の調整を意味する。

どちらかが自分自身の利益の方を優先する場合、相手を詭弁や印象操作(力の論理)によって説得、誘導することが指向され得る。相手がそれに気づかなければ係争に発展せず、秩序の維持が可能である。しかし、相手がその詭弁に気づくならば係争に発展しかねない。それゆえ、二者間が係争に発展する恐れがある場合は、法廷や学問において詭弁を排除した議論と検証が行われる。それでも解決しない場合は物理的な暴力による解決が図られるかも知れない。

どちらも論理的な筋が通っていても、正義の前提が異なる故に世界観が異なり、互いに同意や妥協ができない場合も係争や暴力に発展しかねない。前提を揃えられない場合、それはその前提が譲れない信念だからである。その信念は欲動や情動と結びついている。欲動や情動は正義の観念を形成する源泉である。

間主観的な正義(利害調整行為)は理性的な営みである。それは個人的正義のメタ認知を要するからである。しかし、それは平和や仲良くすることを望む者同士の間でしか機能しないと言える。そもそも仲良くする気がない価値観を持つ人にとっては、仲良くすることは暴力でしかないからである。そのような人に対する間主観的な暴力装置の正当性は存在しない。強いて言えば、当人が周囲と仲良くする気がなく周囲に危害を加えても良いと考えているならば、その当人の論理に従って、こちらも危害を加えることは正当化できる、と言えるかも知れない。しかし、当人の信念が論理性を軽視しているならば、これも通用しない。

満場一致できるような絶対的で普遍的な正義や平和は見出すことは原理的に困難であるとしても、間主観的な合意形成には一定の秩序と平和をもたらす効果があることは認められる。

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