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別天地を目指し(?) 地元の古道探索

祖母から 以前

「 曾祖母が昔、栗平まで 上野地の裏山を越えて商売に行っていた 」

という話を 聞いたことがある。

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かつて、栗平から 上野地へ 山を越えて学校に通っていた 

という話も聞いたことがあり、「そんなバカな」とツッコミ入れたくなったことがある。が、4/10 に 地区の区長さん(80代)との話の中

「昨年亡くなった〇〇さん(80代)が、栗平出身で、栗平から上野地の学校に山を越えて通っていて、途中の水路でアメノウオ居たから捕まえて学校に遅れてえらい怒られたらしい」...とか、やたらと話がリアルなので、どうやら事実のようだ。

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...20km近くあるだろうか?

栗平 という集落、今は廃集落で無人。

剣豪 中井亀治郎 生誕の里 であります。

色んな方からの話などを聞くに、ほぼ上の図のルートで間違いないだろう。

急峻な山を越え、えげつない距離を結ぶ 当時の 集落と集落を結ぶ 生活道

このルートの探索を 近いうちにやってみよう ...と思っていたところ

4/8 山仲間から連絡が入り、ちょうどこのルートが気になっている

...とのことで、即決。 4/9 急遽一緒に行こうという話になりました。

朝6時30分、上野地 発。

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上野地集落から山に入る入口、

これまで聞いていたりしていた情報では

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Ⓐ = 上野地の村営駐車場の上へ上り、神社(山の神)の裾の道を左折し北上。
「かつての里道」と、近所に住んでおられる、歴史に詳しい区長(前出、80代)の談。
以前、途中まで探ってみたが、かつての里道は ほぼ斜面へと還っていたのを確認済で、今回はあえて通らず。

Ⓑ = 地元の70代の方の話では、「現在は道路が拡張しているが、拡張前は このあたりに登り口があり、小学生の頃に 急な坂道を登って、郡長遭難碑の上のほうの広場によく学校の遠足などで行った。おそらく苅場だったところだと思う」との談。
(郡長遭難碑の上のほうに遊びに行った話は、そういえば 生前 母も言っていた。わらびがいっぱい生えていたらしい。)
ただ、道路拡張によって、山側が削られて、道の入り口が分からなかったので、今回はパス。

Ⓓ = 旭橋から鉄階段を上ってヒバンダーラのピークに向かうルート。今回の目的は ヒバンダーラのピークを通らない かつての生活道(地理院地図の破線ほぼそのもの)なので、今回はパス。

Ⓒ = 「別天地」を目指す(?)道の入り口、この道は 地元の現在60代の方からの情報で、「子供の頃にここから鉄塔(ヒバンダーラに鉄塔がある)まで遊びに行ったことがある」との談。地理院地図の破線ほぼそのまま辿る道で、ヒバンダーラのピークは通過しない。

Ⓓを除いては、一番いける可能性が高いような気がしたので、上り口はⒸを選択。


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登山開始、別天地を目指す。 ...違うか?(笑)
(...それにしてもこの看板、もう10年以上は ここにあるぞ。)

山に入ると、すぐに はっきりとした道が現れた。

山仕事の方がよく山に入られているようで、新しい踏み跡(人間のもの)も確認できた。

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それにしても、健脚なおふたり。
序盤にして、すぐさま置き去りにされそうな感じで
必死のパッチで追いかける。


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こんなところに、人工構造物を発見。

はやくも、分譲別荘発見か?(笑)



同行者の話によると

「おそらく、火薬庫だったのではないかな。火薬庫は 壁は上部に作って、万が一爆発しても壁は壊れず屋根が飛ぶようになっているから、おそらくそう」 とのこと。 

1人で行っては 何も分からないままだったところ、知識ある方が一緒だと、色々と勉強になります。(*^^*)


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部分的に崩落している箇所もあるが、たいへん美しい状態で残っている箇所も多い。


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平らなところに出た。
地元70代の方や母が言ってた 広場がここだったのかな?
今は 松の木などが立派に生えていた。


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ヒバンダーラ裾の 峠に着く。
峠の名は不明。

おそらく かつては この峠にも名があったであろうが
今では誰も知らない 名無しの峠。

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このあたり、かつて 炭焼きが行われていた名残か否か、壺状になった石組みが複数ルート上に点在。


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さて、問題はこの先。


一昨年の11月に、釈迦ヶ岳登山口 (太尾)  から 尾根道を通り 上野地を目指した際は、ヒバンダーラを通ることを優先した為、下図の赤の点線箇所は通らなかった。

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等高線も混んでいる この間の道

かつて、曾祖母も通り、通学路でもあったこの道


はたして無事だろうか?



結果 = ダメだった~~~。(T_T)


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崩落で道がなくなっていました。

地図の等高線も 嘘つかない。

道があったであろう場所の、上も崖、下も崖

上にも下にも巻けず

やむを得ず引き返し、ヒバンダーラ経由で その先に進むことに。

エグい急峻な登り、足はだんだん余裕なくなり、薮漕ぎし、鉄塔下をくぐり、1年半ぶりの ヒバンダーラに到着。

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ヒバンダーラ
ヒバンラーダ
ヒバン平嶺
大砂
栂野山

...こんなに呼び名の多彩な山は 他にはなかなかないでしょう。(笑)

ゆっくりする間もなく ヒバンダーラを後にする。

誰かが付けた目印テープを目安に 激坂を下る。

...あれ? コースから外れた。(^^;

目印は、谷底方面へ続く。

我々が目指す尾根とは別方向。(^^;

下ってきた激坂を再び登り(泣)

目指す尾根道に取りつくことができた。

足の限界、時間的にも そろそろ下山しようということになり、中谷集落へ降りることに。

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この 尾根道から 中谷集落への道

更に、この尾根を
ミヤ谷ノ頭 → 不動地ノ嶺 → 迫辻 → 太尾(現在の登山口) → 古田ノ森 → 釈迦ヶ岳

...と続く尾根道は、 畔田翠山 (源伴存 1792 ~ 1859)による 「 和州吉野郡群山記 」にも記されている、歴史ある 《古道》 です。


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このルートについては、児嶋弘幸さんのブログで より分かりやすく書いて下さっているので 添付致します。

ヒバン平嶺(ヒバンダーラ)からミヤ谷の頭へ

不動地の嶺から迫辻へ。釈迦ヶ嶽登拝の道

太尾尾根から不動地ノ嶺へ



中谷集落への下り道も
例によって 激坂。

降りきったところの中谷集落


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お寺(小学校)跡 を発見。

十津川村は 明治の 廃仏毀釈 に伴い 村内の すべての寺を廃してしまったが、やはりここも例外ではない。

小学校が たった1年で廃校なのが 何とも不自然。



集落に出ると、かかしがお出迎えしてくれたのだが...

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怖すぎて、すべてお見せすることはできません。(>_<)



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中谷集落、桜の美しいところです。

前出の 中井亀治郎 のお墓が この 中谷集落にあるそうですが...

どこにあるか分かりませんでした。(>_<)

ここから 車道を歩いて 上野地に戻りました。

現代の道は 距離こそ遠いものの

平らで とても歩きやすかったです。(笑)

かつての生活道 は、崩落していて残念でしたが

上野地集落側に 道の痕跡がしっかり残っていて

先人の軌跡を確かに感じ取ることができました。

...が、別荘は分譲していなかった。w


余談ですが...

上野地の国道より東側の 里道(古道)

上野地→ヒバンダーラ下の無名峠→ミヤ谷ノ頭→不動地ノ嶺→迫辻→太尾→古田ノ森→釈迦ヶ岳→前鬼(下北山村)

と、上野地の対岸(宇宮原・谷瀬)から道を尾根まであがり
内野嶺(谷瀬山)→月谷嶺→山天ノ高→山天ノ辻→赤谷嶺→伯母子岳→口千丈山→億千丈山...と西に延びる尾根筋も 広い歩きやすい尾根道 だそうで、かつては 東西に 尾根伝いに きっと人の往来があり、南北には 西熊野街道も通っていて、ちょうど その2つのルートが交わる 上野地という集落が、昔は《商業の地》と言われて栄えていて、お店や 宿も多かった理由にも充分繋がりうると思う。...持論にすぎませんが。w
 

 



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