節分から老子へ       191-1/21

 きょうは節分。あしたは立春。今年は閏年。

 出し抜けに、老子のことばで意表を突かれたものがあったので、書き留めておく。

 「大器晩成」の意味は、「大きな器はいつまでも完成したように見えない」「大きな器は完全な器ではない」というものだ。「原義は現在使われている『大器晩成」の意味とは異なる」ということだ。

 小林秀雄の「鉄斎について」の中に、鉄斎は大器晩成だった、という記述があったため、この老子のことばがたまたま目に留まった。もちろん現在は、日本でも中国でも「偉大な人物は大成するのが遅いということ。」の意味に使われている。

 以前、『老子入門』を読み、ほぼ理解困難で、しかも兵法とか戦術みたいな感じで、読み終わるまでに、というか中断後に再開したので、数年かかった。

 この現代語訳と解説には興味をそそられる。

「中国語スクリプト」から引用

優れた者が道なるものを聞くと、一生懸命それを実践しようとする。普通の者が道なるものを聞くと、存在するのかしないのかよくわからずに首をひねる。愚かな者が道なるものを聞くと大笑いする。愚者に笑われないようでは道とは言えない。
だからこんな言葉があるのだ。「明るい道は暗く見える。前に進む道は後ろに退くかのようだ。平坦な道には起伏を感じる。高い徳はまるで谷のようである。広くいきわたる徳は物足りない。しっかりした徳はだらけているかのようだ。純粋なものは絶え間なく変化する。真っ白なものは黒く見える。大いなる四角には角がない。大器は晩成し、大音はかすかに聞こえ、大いなるかたちには形がない。道は裏に隠れて名前がない。それでも道は力を貸し、完成に導く」
原文の「大器晩成」という言葉の前後に並ぶ四字の言葉はみな相矛盾するものを並べており、この「大器晩成」の「大器」と「晩成」だけは相矛盾するようには見えません。「大器」ですから完成までには時間がかかるのは当然でしょう。と思ったら原義は現在使われている「大器晩成」の意味とは異なるのでした。原義で「大器晩成」は「大きな器は完全な器ではない」という意味なのです。そういう意味だと思って読んでみてもわかりにくい文ですが、要するに「道」なるものは、誰にでも見えたり簡単にわかるようなものではない、ということを言っているわけですね。

 ここで、『老子入門』(楠山春樹著)を出してきて見てみると、やはり、こう記載されている。

 まず初めに、一般に用いられている意味の説明の後に、

しかし、こうした後世の解釈は、『老子』の原義ではないらしい。「大方は隅無し、大器は晩成す、大音は希声なり、大象は形無し」と並ぶ前後の句との対応から推すと、ここにいう「晩」は、限りなく晩いということであって、「大器はほとんど成り難い」、あるいは一歩を進めて、「大器は完成しない」(大器は成らず)、「大器は完成しないように見える」(大器は成らざるが若し)というのが、その本来の意味であったようである(説は諸橋轍次博士『老子の講義』に見える)。

とある。この後も興味深い説明が出てきて、長いので割愛する。

 もしかして今なら意欲をもって読めそうな気がする。


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