見出し画像

人と神と

頬袋をふくらませたシマリスがこちらを見ているカレンダーがあった。
手前の雪の上にはお日様のようなフクジュソウが咲いている。
カワイー♪・・・と言わせたいんだろうな。
シマリスにしてみればそこの現実がすべてで
冬の間に貯めた木の実をゆっくりと消費中というだけのことだ。
で、無くなったら・心当たりを探す。
人間以外の生き物にとっては自分と現実が一つで・全てでそこに隙間は存在しない。
自然界の動物にとって災害や災難は目の前で起こる突発事項だ。
大きな音がしたりすると本能的に危険を回避しようとするが、自分と危険との関係はあくまでも直接的で、神殿のお供えが少なかったから、などとは考えない(はずだ)。
大分大きな大人になって改めて人類の進化を勉強して、ホモサピエンスである現代人とネアンデルタール人との違いは、抽象的な思考ができるかどうか、だと理解した。
例えば「明日」を考えられる。
そして、神様というのは究極の抽象だと思う。
しかし抽象的な思考というのは、時にものすごい回り道になって真面目な人ほど行き倒れになる気がする。
だがしかし
人類は抽象的な思考を手に入れて“人間”となってしまったのである。
現実を客観視できる能力を身に付けたことで、現実と自分との間が離れて・距離が・隙間ができてしまった。この距離が・隙間が人間を不安に陥れ、バランスを取るために第3の視点・立場を創造せざるを得ず、それが“神”と“悪魔”だった、ってことなのじゃあるまいか。
だから
不安が大きくなればなるほど、“神”と“悪魔”の存在も大きくなると。
逆に言えば
その場限りの“動物”として生きれば“神”も“悪魔”も無しで行けるのだろう。
はて
人間、どちらが楽なのか。
そういえば
中学、高校の頃
新約聖書、旧約聖書(長いので途中まで)、般若心経等々読んでいた。
「人間はどう生きるべきか」という、思春期の潔癖さというヤツだ。
で、宗教書というものに、特にキリスト教のにはすごい理屈っぽさを感じて、これが欧米の文化なのか!と。
「信仰って、理屈じゃないだろ」と思った自分は宗教の理屈から離れた。

また
中学、高校の頃、勉強するときにラジオを小さくかけていたが
「現代音楽の時間」という番組があって、ワケわからん“音楽”が流れていた。
解説者は決まって「現代社会の不条理と不安を表すなんとかかんとか」と。
現代社会ってフジョーリで不安なのか・・・?
その頃の自分はすべてをそれらの言葉で済ませてしまうことにフジョーリと不安を感じていた。「いいのかそれで」

「神と死者の考古学」笹生 衛著 吉川弘文館 という本がある。
そこでは、古代の人たちは嵐や火山の噴火、川の氾濫などを、つまり現象そのものを「神」と認知していたとあって、「そうだよなー」と、しっくりきた。

今時点での自分の捉えとしては
神様は遠くにあるもので・人が理解できるワケが無い。
私は不可知論者である。

母が子どもの頃(昭和のはじめだろう)、町内に金貸しのおばあさんがいて情け無用の取り立てをしていたのだが、寄る年波には勝てず、とうとう足腰が立たなくなった。すると何度も必死で布団を這い出して押し入れに逃げ込もうとするのだと。何でと聞くと「地獄の火の車が来る!」と。

母はその話を聞いて「地獄って、ホントにあるんだな」と思ったのだと。

そのおばあさんは長年自分のやってきたことが「鬼」の所業だったとわかっていたので地獄へ落ちると思ったのだ。地獄は人の心の中にある。

地獄はどこかに「ある」ものではなくて、その人が恐ろしい・嫌だ、と思うことなのだろう。

だからきっと地獄は人の数だけある。鬼や悪魔は人間の恐ろしい心の姿だ。

それでも

人の心の中には間違いなく天国もあって、天国も人の数だけあるんだろう。

天使も菩薩も確かに人の姿なのだ。

それを忘れてはならない。

明るい方に顔を向けて


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?