スクリーンショット_2019-10-26_22

アンディウォーホルと虚構

古本で安かったので買ったアンディ・ウォーホルの特集がけっこう面白かった。美術手帖 1997年 12月号

20世紀を代表するハリウッドスター、マリリン・モンローのイメージがひたすら繰り返されるアンディー・ウォーホールの「マリリン」(1967)はポップアートの代名詞的作品だ

スクリーンショット 2019-10-26 10.25.09



ポップアートとは

ポップアートはだいたい1956年から1970年の間アメリカで流行ったアートスタイルで、主題として大衆社会や消費社会を扱っているのが特徴である。


その根本的な思想はアンディー・ウォーホールの以下の言葉に集約されている。


「ポップアートはあらゆるひとに開かれている。アートが選ばれた少数者のためだけにあるべきだとは思わない」

実際、ウォーホールは写真のコピーをアート作品として発表しているだけだ。

彼の仕事は、ともかく有名なものを複製しまくって、ポップアート宣言するだけなのだ。

反復という要素は現代の広告にも取り入れられており、同じイメージが持つ衝撃を何度も何度も繰り返すことで、消費者のその意識にイメージを浸透させようとしている。 こうした大量なイメージの反復は同時に、「芸術とはユニークで、珍しくて、貴重なものであり、大量生産されるものではない」という、伝統的ないわゆるインテリが消費する芸術に対するアンチテーゼでもある。

と、ここまでは、前置き。

nowhere

この本が印象的だったのは、nowhere(実在しない場所、どこか分からない所)という言葉がやたら繰り返されて出てきたからだ。

「ウォーホルは他のアーティストが夢中になっているユートピア作りに興味を示さず、ただ正確に映すテレビ映画のように、内面や感情を捨て表層を追うことに徹し、nowhere(どこにも存在しない場所)へひと足早くたどり着きニヤニヤ笑いを浮かべていた。」

読んでてハッとした。

— nowhere

この言葉を聞いて

繰り返されるマリリン・モンローのイメージの反復の隙間から漏れる、あの虚構がフラッシュバックした。写真も一枚だけならリアリティーを持って見ることができる。しかしウォーホールはこれを繰り返す。その過程で、リアリティあるものが、虚無化してしまう。

昔、実際にウォーホル展を見にいった時に感じた不思議な感覚を思い出した。あまりの虚無の深さに圧倒されたのだ。どこか淵緑みたいなところに落ちてく感覚になった。そこには何かあるように見えていても、ほんとに何もなかったからだ。

彼の代表作であるマリリン・モンローの反復イメージにしても、だれでも作れるような質の低いポスターがただ陳列しているだけだった。

ウォーホルの言葉で有名なものがある

「アンディ・ウォーホルのすべてについて知りたければ、表面だけを見ればいい。

「僕は完全に、うわべだけの人間だよ。」

これは、まさに至言で、彼の本質をついた言葉だ。つまり、中身はない。あまりにも圧倒的な情報量で表面をつくろうために、何か意味ありげに見えてしまうだけだ。

そして、多くの人がその何かありそうな中身に寄せ付けられて彼の作品を称賛するという皮肉—。

ウォーホルは徹底して、自分自身が資本主義の象徴として、消費されるパッケージのような存在になろうとしていたのだろう。

きらびやかな資本主義社会の裏側にある、どうにもならない孤独、虚無感。光は強ければ強いほど、その裏には必ず虚しさがつきまとう。本当はくだらないってわかってるのに、それでも欲望は絶えず湧いてくる。きらびやかな世界に踊らされずにはいられない。
 

きらびやかで欲望が渦巻く時代に突如あらわれた「虚構」の世界。ウォーホールという天才はいち早くこれを掴んだ。


 「アンディ・ウォーホルの、主体や個性や作家性を否定したかのような発言、アメリカ消費社会への素朴な賛美、つまらなそうにしながら表層的な日常と戯れる毎日、商業的な(デザインや広告)手法を駆使した表現、「ビジネス・アート」と称して積極的に金儲けに走る態度、オリジナリティという概念を否定するかのような複製や反復へのこだわり、知名度や日常性の高い題材への執着などの、いわゆる「芸術性」や「芸術的価値」を徹底的に拒否・否定しているようにみえる態度は、ある種のニヒリズムを体現しているようにみえる。」

  

ひょっとしたら、彼自身どうしようもないニヒリズムに苛まれたのかもしれない。

そして、彼の表現したnowhereは、我々を突き放すような種類のものではなく、ある種の絶望を体験したことのある人間を、優しく慰めてくれるようなものだと思う。

だから、この「nowhere」を知った時、その空間の安らぎに身をゆだねざるを得ない。

ウォーホルの作品にある種の心地よさを感じずにいられないのは、ニヒリズムにならざるを得ない現代に生きる人間のどうしようもない在り様を許容しているからなのだ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?