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「知る」ことと「感じる」ことの違い


「好きな本は何ですか?」

と聞かれると、待ってました、とばかりにわたしは「ノルウェイの森です」と、答える。

ノルウェイの森を読んだことがある人にはわかると思うけど、この小説やたら人が死ぬ。しかも簡単に。あとセックス描写もやたら多い。そしてそのまま、独特の薄暗い雰囲気の中淡々とストーリーが展開されていき、とくにクライマックスもないまま終わっていく。


多くの人のこの小説の内容を理解できないという感想やコメントは良く目にする。Amazonのレビューを読んでもボロカスのも多いし、インテリ批評家からのウケも散々である。

「小説に出て来る女が、「こんな女いねえだろ」みたいなのばっかりで。リアリティのないフシギちゃんみたいなのとか、メルヘン系とか。しかも主人公の僕が冴えない僕なのに彼女たちにモテまくる。意味わかんねえ!みたいな。」(中村うさぎの「ノルウェイの森」評)

これは「ノルウェイの森」の映画評だが、キネ旬に載った藤井仁子さんの評である。

「眠り、食べ、読書し、ふと見上げると女達が次から次に現れる。菊池の狂気も水原の装われた奔放さもすべてはノンポリ学生の内面に去来するイメージでしかなく、真の他者との直面はついに回避されたまま」

主人公のワタナベは、何もしてないのに何故かどんどん色々な女の子から好かれる。そしてそれに対してワタナベはただ受動的にそれを受け止めるだけ。それを持って「状況を主体的に変えようとせず、ただ状況に流されるだけでないか」と言われたり、「男の願望を充足させているだけ」という批判がされたりした。以前、上野千鶴子もこういうことを書いていたのを読んだことがある。


実際に、以前の私もこの小説がよくわからなかった。むしろ村上春樹の中ではかなり嫌いな部類に入る小説だった。主人公ワタナベにも共感できなかったし、彼の友人たちにも共感できなかった。

登場人物のどこかニヒルで冷めたような性格や行動、ある種の孤独や不足感が、現代の若者の生活にありふれすぎていて、ところどころ彼らの仕草や読書遍歴に共感できてしまい、むしろちょっと共感できてさえしまうがゆえに薄っぺらいという感想を持つ人もいるだろう。私もその一人だった。


はじめてノルウェーの森を読んだ時から7~8年が経った。
なぜ今になって読み返してこんなにもこの物語に共感できるようになったのか。一言でいえば、それはこの小説を理解するのに必要な経験してしまったからである。

この小説はある種の体験を肌で感じてきた人間にとっては強烈な『共感性』を呼び起こす。



『ノルウェイの森』について書かれた文章の中で以下のようなものがあった。

『強烈な共感性』を体感させる条件。ある種の人生イベントの有無があるかどうか。


1 若い時期に、近親者・同級生に自殺者が存在している
2 死(極めて身近な範囲の)と、若い時期に深く接触している
3 恋人や友人やその他の近しい存在に重度の精神病者がいる・彼らの存在が消えている
4 周囲で発生した自殺の数が多い
5 読者自身が精神疾患もしくは近似した感覚を有している
6 身内の介護に取り組んだことがあり、糞尿等の介助実体験がある
7 職業として日常的に精神疾患者の対応をしており、その生活を間近に見ている
8 性について虚無感を抱いており、ゲーム性をもって性交を積み重ねたことがある
9 学生時代に、学生寮に住んだことがある
10人生放棄に近い状態で、全国を野宿旅などで放浪したことがある   ※条件9や条件10は正直どうでもいいが、とりあえず、上記の条件1・条件2・条件3の体験は必須だと思う。それがあれば、この小説は正しく読める。これらに該当する体験が皆無ならば、この小説を正しく読みこなすことは不可能で、『共感性』を抱くことはまったくできないと思う。よく意味の分からない小説になると思う。


わたしは必ずしも上記の条件が必要だとは思わない。

あえていうなら、強烈な対象喪失体験に基づくアイデンティティロス。もしくは離人症的な精神状態を経験したことがあるかどうか。そしてそれに伴い、死がまとわりついていくるような感覚を経験したことがあるかどうか、とかだろうか。もっと抽象的なことばでいえば実在的な不安と悩み。そういった感覚を抱いたことがあるかどうか。これがこの小説を理解するのに必要なファクターではないかと思う。それが必ずしも実際の「死」を伴ってる必要はないと思う。


おそらく、そういった感覚を経験してない人間が、この小説のテーマである『死・生・喪失』について「理解」していたとしても、全体をまとめる包括的な実感をもって「分かる」ことはできないのではないかと思う。

ある種の心理に関する知覚経験(感覚性心像)が無いため、言葉による説明を受けて心像を得ても、その二者がリンクせず、「意味」を理解できないとでもいおうか。

私は、しばらく前から、「知る」こと「理解する」ことよりも、「感じる」ことのほうが大切なのではないか、「感じる」のほうが、裏切らないのではないかという思いを抱いている。

そして「感じる」とは動物的・生理的な感覚として訪れる側面が強く、思考や推測によって「理解する」ことは全く別物な気がしている。

世の中には、知っているつもりでいて、そのくせ十分感じられていないことがたくさんあるのではないか、そのような気がする。 以前の私がそうだったように。実際に感じてしまったあと、理解の側に留まってる人間が全く別人種の人間に思えるから不思議である。

そして「感じる」ことで初めて本当の意味で理解できた芸術や文学作品、言葉がたくさんある。それは知識武装や知的好奇心として楽しむものではない。手に取る事のできる地獄と等価な「地獄」を見つけたという安心感とでもいおうか、

わたしにとってノルウェイの森はそういう小説だ。

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