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16OctH21

彼は家の裏の、私が小学校の頃に愛用していた錆び付いた黄色い自転車の陰に横たわっていた。いつもなら学校帰りの私を出迎えてくれるはずの毛むくじゃらな姿が見当たらず、名前を呼びながら庭中を探し回ってやっと見つけたのだ。11月になるとはいえ暑い日が続いていたのでいつものように地面に穴を掘って涼んでいたのだろう、と思いついた私はようやく見つけた喜びと心配したことへの不満をブツブツと呟きながら近づいたが、様子がおかしいことに気づいた。いつもなら話しかけるとすぐに反応する真っ黒な瞳は閉ざされたままで、触り心地のよかった腹部の毛は上下していなかった。心臓がぎゅっと締め付けられたと同時に、真実を悟った。家族の名を叫びながら土と血にまみれた愛兎を泣きながら抱きしめていたことを今でも覚えている。魂が解き放たれたそれは冷たく硬直し、昨日まで足元にまとわりついて離れなかった彼と同じものだとは思えなかった。その後どうやって別れを告げたのか記憶が定かではないが、生きている家族に根気よく説得されようやく、日当たりのいい場所に眠らせてやることにしたのだ。人生の三分の一を共に過ごした存在を失い私は傷ついていた。彼にしてあげられたことはもっとたくさんあったはずなのに、悔やんでも悔やみきれなかった。どうしたらこの悲しみから解放されるのかがわからなかった。彼と話せば楽になるかもしれない。そう思い立ち、遠く離れた場所に住む恋人に連絡をした。

6年間一緒に暮らしてきたうさぎが死んだのは1年前、太平洋三陸沖で発生した大規模な地震により大パニックに陥ったあの日から約半年と二ヶ月後の話だ。思い出に浸るなど年寄りのすることだと思っていたが、過去に逃げ込むことは自分を気持ちよくさせるための手段の一つであると気づいてからは、定期的に行っていた。帰宅直後にかかってきた電話を取ってからとうに3時間が経とうというのに会話はほとんどなかった。画面に映し出された男はくだらないテレビ番組を見ながら大口を開けて笑い声を上げた。1年前の今頃もこんな調子で涙を止める方法を知りたかった私には何の役にも立たなかった。酒焼けして赤くなった大きな顔には、レンガで殴りつけたようにへしゃげた大きな鼻が乗っており、つい最近床屋で切ったといい張っていた髪は起きたばかりの少年のように好き勝手な方向に伸びて非常にだらしがなかった。彼も私も惰性の毎日を送っていた。しかし少なくとも私はこの状況に少なからず不満を持っていた。
とうに諦めたつもりでいた。元からこの人はどうしても私である必要はなかったのだ。対等であろう、賢く立ち回ろう、そう自分自身に言い聞かせながらいつか報われる日を夢見ていた。周囲の人間にいくら貶されようと私だけが彼を愛することができると信じ、常に次が最後だと心の中で呪文のように繰り返すことで心を騙し続けた。が、もうこれ以上は続けられない。心が悲鳴をあげていた。恋愛というものに対して夢を抱いていたのには自分でも驚いたが、何よりも3年という月日が経っても自分の体を初めて明け渡したその人を未だに尊敬することができないことに自分でも戸惑っていた。

「ねえ」
返事はない。とうの昔から私の声は一度では彼の耳に入らない。常にテレビとパソコンとゲームを起動していたが、注目しているのはいつもどれか一つだけだった。私と話しているときは私に集中してほしいということを涙ながらに懇願したことがかつてあったが、その言葉でさえ今のように無視された。
「君さ」
男は笑い続けている。名前を呼び合う習慣は私たちの間にはなかった。はじめは呼ぶのも呼ばれるのも恥ずかしいからと、照れ隠しのために使っていたが、今では他の異性のものと呼び間違えることのないように、「キミ」の二文字に統一していた。
「私が別れたいって言ったらどうするの」
誰の目にも明らかな最終通告だった。聞き返されないようにゆっくり、はっきりと口にした。バラエティ番組特有の画面外から飛び込んでくる女性たちの笑い声が聞こえ、彼もそれにつられて大口を開けて笑っていた。自分との関係を終わらせたがっている恋人なんかより、目の前の箱が与えてくれる情報にしか興味がない様子だった。
元から何も期待していなかったので傷つきはしなかったが、自分の答えを出すのになかなか時間がかかっただけに拍子抜けした。しかしここでグズグズしたとしてまた同じことの繰り返しになるのは目に見えていたし、私にはこれ以上耐えるための理由がなかった。愛など初めからないも同然だったからだ。
無言で赤い切断ボタンをクリックし、トークルームに「バイバイ」と書き残すとすぐに「ばいばい」という返事がきた。私の声が聞こえなかったのではなく、向こうがミュートボタンを押していたことを知り何だかおかしくなった。

私の人生の三分の一は失われたままだが、とにかくこうして私の初恋は終わった。

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