人を傷つけない笑い

人を傷つけないお笑いなんてあるのか?
私はないと思っている。
どんなお笑いにせよ、多かれ少なかれ傷つく人間はいると思っている。

実際私も笑いで傷ついた経験はある。

ディズニーランドにお父さんと行った時。
スティッチエンカウンターというアトラクションに乗った。
乗った、というか、このアトラクションはスティッチとお話しができるよ、みたいな、
タートルトーク的なアトラクションなので、“乗った”という言い方はちょっと変かもしれない。
タートルトークのように挙手制ではなく、スティッチがランダムにお客さんをイジっていくというスタイルだったと記憶している。
そこでうちのお父さんがスティッチに選ばれた。
スティッチはうちのお父さんのことを「どこかで見たことある」と言いだした。
そして「あ!思い出した!」と言って、
「昔クレヨン鼻につめて刑務所に入ってた人だ!」みたいな、なんかそんな感じのことを言ったと思う。
みんな笑っていたし、うちのお父さんも笑っていた。
しかし私は内心、おいおい人の父親を捕まえて鼻にクレヨンつめて刑務所入ったとは何事だ?
と思っていた。
なんちゅう角度でいじりよるんだ。
私はみんなと同じようには笑わずにスティッチに対して敵対心むきだしで睨んでいた。
誰だってお父さんをいじられてあまりいい気はしないだろう。

私は傷ついたわけだが、周りはウケていた。
それで私は「ちょっとちょっとそりゃあないんじゃないですか、あんまりですよ」と抗議しようとは思わない。
「おいスティッチ!表出ろやい!」なんて気持ちは起きない。

それから私は『学校あるある』と『恋愛あるある』も自らの経験上よくわからない。
学校も嫌いでロクに通っていなかったし、恋愛もロクにしたことない。
今だっていい年こいてるのに、セフレはいるけど彼氏いないって有り様だ。
普通28歳の女の子は、結婚を前提にした彼氏がいてもおかしくないってのに。(結婚して子どもがいてもおかしくないぐらいだ)
そういうお笑いに関しては、私はさっぱりわからず、周りの人が笑っているのを見ると、「これ私の人生にはないんだ…」となんだか自分の人生に人とは共有できない空白の空間があるような気がして、切なくなってしまう。
つまり、笑いで傷ついている。

しかし私以外の周りの人はそれを見て「いたなあそんなやつ!あるある!そういうこと!」ってなって、気持ちを共有してハッピーになっているのだから、それでクレームいれようとは思わない。

このように、人によって、経験や生い立ち、その他様々なバックボーンにより、『人を傷つけるお笑い』というのは存在する。
一見して人を傷つけないお笑いに見えるものでも。
自分がおもしろくてしょうがない!と腹抱えて笑っているものでも、誰か傷ついてる人がいるかもしれないのだ。

テレビを見てクレーム入れる人は、おそらく“周りの人がウケている”というのがわからないからクレームをいれるのではないだろうか。
そのテレビを見て、その人以外の人はめちゃくちゃ笑っているかもしれないのだ。
だけどテレビだと自分以外の他人のリアクションがどうかがわからない。
私はたとえ自分が傷ついたとしても、他の人が笑ってるならいいや、と思ってしまうし、それでクレームをいれようとはならない。
お笑いってそういうもんだ。
自分が傷ついたからといってそれで抗議するのは、ちょっと自己中心的すぎやしないかと私は考えてしまう。
そうやって子どもの頃からお笑いを見てきた。


私の考えは前時代的なんだろうか??

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?