幼生たちは荒野を目指す

 湖に棲む魚たちは、這い回る四つ足のぬめぬめした連中を、全く下の下の生き物と考えている。泳ぎが下手で鱗もなく、動きは鈍く毒も棘もない。年取った大きな個体はともかく、若い個体なら捕らえて食うのは簡単だ。しかもこのみっともない連中は、見目も悪ければ味も悪い、どうにも歯ごたえも味気もない餌だった。
 しかし、ノサップ=タマラだけは別だ。およそ動くものは何でも口に入れる鰻、短気で不機嫌で獰猛な雷魚や、夜毎徘徊し出会うもの全て呑み込む、あのいつも飢えている鯰でさえも、ノサップ=タマラを見れば黙って避ける。
 ノサップ=タマラは湖の女王。湖にはノサップ=タマラを邪魔するものはいない。湖は彼女の庭。湖で起きたことで彼女の知らないことはない。
 彼女は湖で最も年取った四つ足で、その顎は成体を一呑みにできるほど大きく、外鰓はふさふさと繁り、鰭はなめらかで厚い。同じ年に孵化した兄弟、ノサップ=ティウやノサップ=サムタの名を知るものはほとんどおらず、彼らより遥かに若かったアズマ=テルマナやサクラ=カウは、幾年も前に老いて死に、次に若いヨーム=デムも、今では老いさらばえて死を待つばかり。だがノサップ=タマラときたら。彼女は未だ意気軒昂、春の恋の季節には、雄共を尾びれで巻き締めて狂い回る。

「ノサップ=タマラ!ノサップ=タマラ!あんたに聞きたいことがある!」
 そんな女王であるはずの、ノサップ=タマラの名を呼ぶものがいる。ノサップ=タマラは夢を破られ、眠りの縁から頭をもたげる。ノサップ=タマラは巨体を起こし、自分を呼びつける不埒な奴をどうしてくれようか思案しながら、寝床からのそり身を乗り出す。
「おれはクリー=カイ」
 小さな幼生は尾びれを震わせて告げる。ノサップ=タマラはいくらかがっかりして、幼生の姿をしげしげと眺める。こんなちっぽけなやつを食っても、腹の足しにはなりそうもない。
「クリーの生まれのものは死に絶えたと思っていたが」
 クリーの年にはノサップ=タマラが知る限り、最も猛烈な大旱魃が起きた。幼生が過ごす浅瀬は干上がり、深場の淀みさえ乾き果て、わずかに残された狭い水場に、幼生も成体もひしめいていた。まったくクリーの年といったら!幼生は皆食われてしまい、成体同士すら共食いし合った。トーリ=クラーとスーラ=イズマ、見た目も味も貧相な雄共。イディラディ=ラウムを食ったことには、若干の後悔を覚えなくもない。中々独創的な求愛をする雄だったのだが。
「おれの他にクリー=サマディとクリー=シズマ、それにクリー=バズムが生き延びている」
 クリー=カイは誇らしげに告げる。その申告が確かならば、クリー=カイは年齢に比してあまりにちびで、およそまともな成体になれそうもない。
「それで、クリー=カイは何をしにきた?」
「陸について教えてほしい」
 ちびで貧相な幼生は言う。その鰭は縮んで外鰓もみじめ、顔は目ばかり大きく目立ち、皮膚には色素が沈着して黒ずんで見える。
「毎年いくたりかの幼生が、陸に上がっていくと聞く」
「わたしは陸に上がったことはない」
 ノサップ=タマラに限らず、成体は陸に上がらない。幼生たちがどう振る舞うにしろ、それは湖の中のものが知ったことではない。
「だが春になればまた、湖へ戻ってくる連中がいるというじゃないか」
 春の水場にやってくる、黒い肌に黄色いまだらの、妙なちびどもがいるのは知っている。そして確かにそいつらが、水場に降りて繁殖に混じり、卵を生んでいる雰囲気はある。あれはいつのことだったか、ノサップ=タマラは好奇心にかられ、何匹かつまんで味見をしてみた。春の気ぜわしい雰囲気に紛れ、せっかく飲み込んだそいつの味はよく思い出せないが、そう言われれば確かにそう、あれは同族の味だった気もする。
「けれどもあいつらと話したことはない。そういえばおまえは奴らに似ているな」
 かつての餌の味を思い出している、ノサップ=タマラの視線を受けて、ちっぽけな幼生はじわりと後ずさる。けれどもいっさんに逃げ去ることはせず、考え込む様子を見せる。
「おれは陸に上がりたいんだ」
「陸なんぞに行ってどうするつもりだ」
「どうするつもりもありはしない、ただ陸に上がりたいんだ」
 今度はノサップ=タマラが考え込む番だった。彼女は生まれてこの方一度も、陸に上がろうと思ったことはない。

 ノサップ=タマラは気まぐれだ。水鳥や肉食魚に襲われることのない彼女は、普通の同族が身を潜めている昼間にも、しばしば起き出してうろつき回る。
「やあクリー=カイ」
 水面に無防備に浮かんでいた幼生は、驚いて身をくねらせた。
「ノサップタマラに覚えられているとは光栄だ」
「下から見るとおまえの腹はとてもうまそうだ。幼生らしく水草の間にでも隠れていてはどうだね」
 クリー=カイは慌てて泳ぎだす。カイにとっては幸運なことに、ノサップ=タマラは満腹だった。先に飲み込んだ鮒が、まだ喉につかえているようだった。そうでなければこのちびの幼生は、話すより先に口に収まっていたところだ。
「このところうまく水に潜れない。そろそろ陸に上がるべきなんだろう」
 クリー=カイは慌てているのに、どうにもまっすぐ前に進まない。短い尾と足で水を掻き、不自由そうになんとか浮き草の隙間に潜り込んだ。
「おまえはなぜ陸に上がるのだね。わたしに話を聞きにきたあの時、おまえの姿はもう変わり始めていただろう」
 ノサップ=タマラは何とはなしに、この前気になったことを聞いてみる。こんなちっぽけな幼生は、たとえ陸地に上がったところで、湖の中にいるのと変わらず、いやそれよりもっと多くの敵に襲われるに違いないのに。
「ノサップ=タマラ、あんたには分からないかもしれない。あんたはこの湖の全てを知っている。これまで何が起こってきたのか、そしてこの先何が起きるか」
 今までの慌てようとは打って変わって、幼生は静かに語りだす。その言葉はノサップ=タマラが遥か過去に置いてきたたぐいの、ある種の決意に満ちている。
「おれがあんたや他の成体の間で暮らし、なんとか死なずに長らえたとして、おれの未来はどうなるのか。多分あんたには分かっているだろう。おれはそれではいやなんだ」
 浮き草の間から差し込んだ光が、幼生の影を水底に落とす。不安定に揺れる影の形は、本物のクリー=カイよりもずっと大きい。
「おれがあんたを訪ねたのは、この世の中はまだまだ広く、あんたが知らない場所さえあると、確かに信じたかったからだ」

 あくる日の朝、ノサップ=タマラは、水鳥の声に眠りを破られた。けたたましい喚き声に苛立って、ノサップ=タマラは泳ぎ始めた。小魚や幼生を食いにくる水鳥は、今は浅瀬をかき回し、ちっぽけな何かを捕らえようとしている。
 ノサップ=タマラは身を翻し、尾を水底に叩きつけて飛び上がる。大きな頭が空中に弧を描き、驚きわめく水鳥をぱくりとやる。彼女の起こした波の余波が、ちっぽけな幼体を陸へと押しやる。
 ノサップ=タマラは跳躍の勢いで、半ば陸上に上体を乗り上げ、クリー=カイと見つめ合う。口の中の鳥はますますやかましく、ノサップ=タマラはそれを幾度か噛み直した。陸の空気は乾いて冷たく、土を踏む足はひりひりして重い。この寒々しくきたならしい場所に、どうして望んで向かうのか、ノサップ=タマラにはまるでわからない。
 クリー=カイは四肢をしっかりと張り、地面を踏んですっくと立っていた。幼体の皮膚には凹凸が生じ、まだら模様が浮き出している。彼はなにか言ったふうだったが、ノサップ=タマラにはわからなかった。それはおそらくカイがもう、陸の生き物になってしまったからなのだ。
 幼い雄はくるりと向きを変え、未練に振り返ることもなく、敏捷に陸を駆け去っていく。
 ノサップ=タマラはふいに悟る。ノサップ=タマラはまだまだ生きるだろう。ノサップ=サムタやアズマ=テルマナが死んでいったように、ヨーム=デムが死んでいくように、今はまだ若いゲルマ=ラーマもシトラ=リオーも、おそらくはこのクリー=カイも、彼女より先に死ぬだろう。ノサップ=タマラは今生きている、この湖のあらゆる個体よりも、遥かに遥かに長く生きるだろう。けれども、いかに長く生きたとしても、ノサップ=タマラはクリー=カイが、これから生きる世界を知ることはない。
 ノサップ=タマラは身をよじり、ゆっくり水に体を引き戻す。最後にちらりと陸を一瞥、元の深みへと戻っていった。水を飲み込み鰓を震わせ、大きなげっぷをひとつ、ふたつ。鳥の羽がひどく喉につかえる。これから気分良く眠れるだろうか……。

「ノサップ=タマラ!ノサップ=タマラ!あなたに聞きたいことがある!」
 ノサップ=タマラは微睡みから目覚め、そこに幼生の姿を認める。
「クリー=カイ?」
 ノサップ=タマラの年になったなら、幼生は皆似通って見える。とりわけこの幼生の姿は、過去に見たものとそっくりだった。
「いいえ。わたしはティクラク=イマー」
 その痩せっぽちの幼生は、しかし痩せっぽちの身に許される限りの誇りを漲らせ、鰭を広げて名乗るのだ。
「クリーの生まれのものはもうこの湖にはいない」
 ノサップ=タマラは湖の女王。湖の中に彼女の知らないことはない。そら、この幼生が何を望むかさえ、彼女は聞く前からもう知っている。
「あなたに陸について聞きにきた」
 けれども彼女がなぜそれを聞きたいか、ノサップ=タマラが知ることはない。
 ノサップ=タマラに知り得ない衝動によって、幼生たちは荒野を目指す。

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