お題「鳥」

 その建物はコンクリート造りで、海に面した丘の上に建っていた。目の前の海からパイプが引かれており、建物の中の水槽に新鮮な海水を供給していた。
 毎朝人間たちがやってくるたびに、建物は喧騒で満たされた。建物の二階には机がいくつも並んでいて、そこで人間たちは紙を重ねたり撒き散らしたり、紙面に何か汚れをつけたりしていた。一階には海水の満たされた大きな水槽が据えてあり、貝が静かに殻口を開閉して呼吸していた。建物には毎夜遅くまで明かりが灯り、人間たちの話し声は深夜まで絶えることがなかった。
 そうして、人間たちは毎日建物を汚した。消しゴムの滓や鉛筆の芯を床に落とし、水槽に手を突っ込んで、海水の飛沫を壁に飛ばす。時には酒盛りをして、そこいら中に飲み物や食べ物のしみをつけた。建物には人間の行いがよく理解できなかったが、それでも彼らが好きだった。建築物は汚れや傷で人間たちを記憶するのだ。無論ガラスを割ったり壁を突き破るような狼藉は好まなかったが、大切に使われる中での汚損や摩耗は、むしろ建物にとっては誇らしいものだった。とりわけ建物が愛したのは「じょうさん」と呼ばれている人間だった。(もちろん建物だって人間を愛する。とはいえ建物の愛は、何に影響することも、誰に知られることもないのだが)人間の区別などほとんどついていない建物が「じょうさん」を記憶するようになったのは、ひとえに彼が毎日同じ行動を繰り返すからだった。「じょうさん」は昼の休み時間に決まって建物の外に出て、南の壁にもたれて一本煙草を吸う。それから同じ場所をとんと叩いて建物の中に戻っていくのだ。変化のない毎日の、変わらぬその一瞬を建物は楽しみにしていた。
 建物は変化を好まなかったし、実際建物にとっては、変化といえるものはほとんど起こらなかった。建物がいかに人間たちを愛しているとはいえ、彼らの生活はそれによって加えられる汚損を別にすれば、興味を惹かないものなのだ。建物にとって一番大きな事件といえば、ある暑い日に開け放してあった窓から、大きなトビが飛び込んで来たことだった。トビは空のない場所に混乱して建物の中を飛び回り、窓にぶつかって羽を散らし、壁に激突していくつも血のしみをつけた。人間たちもまた混乱して何事か叫び、トビは鳥のことばで悲鳴を上げた。人間の一人がトビに上着を被せて外に放り出し、トビはふらふらと飛び立っていった。建物は血のしみに少し気分が悪くなり、人間の誰かが気づいて取り除いてはくれないものかと願った。しかし人間たちは床に散った羽や糞を片付けて、血のしみには気づかないようだった。しみはいつまでも残り、建物はその汚れを厭わしく思った。
 このように建物の世界と人間の世界は異なっていたため、人間のやってくる時間が早くなり、帰る時間が遅くなり、数が少しずつ減っていったことにも、はじめ建物は気づかなかった。いつものように建物の外に出た「じょうさん」が大きなため息をついた日に、建物は初めて不安を感じた。思えば最近は人間皆がそのように振る舞っていた。パイプの海水は量が減っていたし、そういえば人間も減っている気がする、というのに、出入りする車の数は増えていた。「じょうさん」は二本目の煙草に火をつけた。
 だがしかし、パイプの海水が止められたときも、人間たちが電気を止めて、「じょうさん」が扉に大きな鍵をかけた時も、建物は置き去りにされるなどとは思ってもいなかった。人間たちがもう二度と戻ってこないことに気づいたのは、貝がすべて死んで口を開けた後だった。貝は建物の中で、ゆっくりと時間をかけて腐っていった。

 朝が来て、また夜が来て、朝が来て、夜が来た。それはやはり変化のない日々であったけれども、人間たちのいた頃の日々とは大きく異なるものだった。
 誰かが閉じ忘れていった窓から、風が吹き込んで建物の扉を揺さぶった。木の葉や枯れ草が舞い込み、蝶が一頭飛び込んできて狂ったようにガラスに体をぶつけ、やがて力尽きて息を引き取った。建物は次第に汚れていったが、人間に触れられていた頃のような喜びはなかった。ひときわ強い風が吹いた日に、潮風に傷んでいた建物の扉は腐って取れてしまった。

 ある寒い日に、ぜいぜいと息をついて、何か生き物がやってきた。人間たちはいつも乗り物(建物はあの自走する乗り物が嫌いだった。こちらが動けないからといって見下されているような気がするのだ)に乗ってきていたにもかかわらず、建物はかつてのあの人間たちの姿を期待した。無論そうではなかった。
 それは赤毛の野良犬だった。ひどく痩せて、左の後ろ脚をわずかにひきずっていた。垂れた耳の影には、目やにのこびりついた目があり、目の奥には癒えることのない悲しみのようなものが潜んでいた。犬は目を伏せて建物の扉を潜った。しばらく建物の中を嗅ぎ回り、水槽に溜まった雨水を飲んだ。そして一階の隅で丸くなり、小さく鼻を鳴らして眠りについた。やさしく触れられたことのない、ぼさぼさの毛を眺めていると、建物はこの野良犬に建物にあたう限り親切にしてやりたいと思った。犬の寝息に満たされて、建物は久しぶりにくつろいだ気分だった。
 犬は目覚めるとくしゃみをして、ゆっくりと周囲を見回した。何が起きてもよいことではないと確信するように、犬は悲しみに濁った目をして首をもたげ、長く人間のように息をついた。
 おまえが望むだけ、好きなだけここにいていいんだよ、と建物は思った。しかし野良犬はよろよろと立ち上がり、ゆっくりと歩み去っていった。建物は己へ続く道路に、すっかり草が生い茂っていることにようやく気づいた。

 春の暖かな日に、建物は自分の南側の壁を何かが汚していることに気づいた。2羽の鳥がくちばしに含んだ泥を壁面に熱心に貼り付け、なにか小さな構造物を建築していた。
 それはイワツバメの夫婦だった。おやおやと思っているうちに、泥は鳥の巣を形作り、小さな卵が産み付けられ、そこに小さな家庭が生まれた。建物はそれまで、生き物が育つのを見たことがなかった。赤裸だった雛はたちまち羽毛に包まれて、毎日むくむくと成長していった。親鳥は毎日くちばし一杯に虫をくわえてきては、雛の黄色いくちばしに詰め込んだ。そして夜になれば小鳥たちは眠りにつき、小さな小さな寝息が建物の壁をやさしく撫でた。鳥たちのさえずりで朝を知り、夜は羽毛の温かな気配に満たされて安らいだ。建物は自分がその鳥たちを好きになったことに気づいた。建物は生き物に頼られており、それはとてもいい気分だった。
 雛の成長につれて巣は小さくなり、雛たちは巣の縁に身を乗り出して時折羽ばたくようになった。勢い余った雛が一羽地面に落ちて、親の助けを求めながら蛇に呑まれた。建物は外界で雛たちを待つ運命を知って驚き悲しみ、彼らが巣に留まることを望んだが、巣は最早雛には小さすぎることは明白だった。一番大きかった雛が巣から飛び出し、三番目のちびが後を追いかけた。一番小さな雛はしつこく巣にしがみついていたが、兄弟が皆いなくなったことに気づいて、慌てて後を追った。

 建物は悲しんだ。鳥たちのいなくなった空間を抱え、去っていった人間たちや、野良犬のこと、それに鳥たちを待つ運命のことを考えて気をめいらせた。
 しかしイワツバメたちは翌年もやってきた。半年の間留守にしたことなどなかったかのように古巣に潜り込み、新しい卵を産んで雛を育てた。しかし前年でないことを示すように、新しい巣を作りに来たつがいがいた。果たしてそれらが前年に生まれた雛かどうか、建物には判別できなかったが、若いつがいは立派に子を育て、その巣からも新しいイワツバメが巣立った。小さな鳥たちは次第に数を増やし、いつしか建物の中にも入り込み、あのトビがぶつかった壁を糞で汚した。

 建物は再び満たされた。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、そして春が来る。建物は季節を愛し、季節に悲しんだ。それはかつて建物にはなかった感覚だった。

 春はいつも喜びだった。イワツバメたちは春風に乗ってやってきて、建物の中を羽と高い声で満たした。鳥たちは小さな巣に潜り込んで、その構造が気に入ったとか気に入らないとか、どこが壊れているとか汚いとかてんでに点検し、古い巣を改修するか新しい巣を作るために飛び回る。建物はまだ見ぬ雛の鳴き声を想像して心を踊らせた。
 夏は生に溢れていた。朝が来ると同時に親鳥たちは飛び立ち、空を束の間黒くかげらせる。決して満腹になることのない雛たちのくちばしに、親鳥たちは躍起になって虫を捕らえては詰め込み、雛たちは食べるだけ大きくなっていく。丸々と太った雛たちの姿を見るたび、壁にかかる重みが増えるように感じて、建物はくすぐったいのだった。
 そして秋は別れの季節だった。毎日空の巣が増えていき、やがて建物はひとりになる。しばらくしてやってくる晩秋には、もう死んでいくものたちが、生きる場所を探して逃げ回る。風をよけて建物のかげにうずくまった甲虫は、翌朝動くことはなかった。春に生まれたばかりのネズミが、震えながら建物の隅に潜り込んで、そのまま出てこなくなる。冬眠場所を見つけられない蛇が、日に暖められた外壁に暖を取りに来ることもあった。そんなとき、建物には昔憎らしかった蛇がいとおしく思えて、どうかこの蛇がよい寝床を見つけるまで暖かい日が続きますようにと願ったりするのだった。
 冬は忍耐だった。春に戻ってくるイワツバメたちを待って、建物は木枯らしに耐えた。時折厳しい目をした渡り鳥がやってきて、建物の軒下で一夜を過ごしていく。そんな時建物は、自分の愛するあの小さなイワツバメたちと彼らがどこかで出会いはしなかったかと想像を巡らせるのだった。
 しかし再び春が来れば、孤独の日々は記憶の彼方に消える。建物は再びさえずりに満たされて、鳥たちと一緒に春の歓喜に心を踊らせた。

 そんな日々をどれだけ過ごしたことか、ある夏の日の昼下がり、建物はふと懐かしい振動を感じた。相変わらずすました顔をしたあの乗り物が、道路に生い茂る植物を蹴散らし蹴散らし、二人の人間を乗せてこちらへ走ってくるところだった。
 建物はまず鳥たちを気にした。人間が巣に近づけば、鳥たちは恐れるに違いない。乗り物がそのまま過ぎ去っていってくれることを望んだ。
 しかし望みは叶わず乗り物は止まり、二人の人間が降りてきた。老いた人間と若い人間の二人組で、老いた方はひどく弱った様子で杖にすがってよろよろと歩いた。建物はあの野良犬のことを思い出した。若い人間の体を支えようとした手を払い、老いた人間は建物の壁に触れて、何事か囁くと、一本煙草をつけて吸い込み、ひどく咳き込んだ。
 建物は気づいた。それはあの「じょうさん」だった。「じょうさん」は壁にもたれて息をつき、若い人間に何事か話しかけた。若い人間はせわしく頷き、二人は長いこと話し込んだ。
 イワツバメたちが巣に戻りはじめた。鳥たちは彼らのことばで鳴き交わし、生命に満ちた翼で羽ばたいた。「じょうさん」は空に顔を向けて何か言った。彼が何を言い、何を感じているのか、建物にはわからなかった。鳥たちは雲のように群れ集い、古びた建物と古びた人間を包み込んだ。

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