ナフザール・ナフタの生、または死、あるいはその文字について

 ナフザール・ナフタ、この罪人は、この世のおよそ悪と名のつく行い、窃盗、強盗、強姦、火付け、殺人、その他これらより小さな罪、立ち小便から詐欺博打までを一通り経験していたが、その邪悪には何の意志もなかった。思想もなければ信念もなく、望むことに邪魔であるから、退けるために悪を為すという、悪のうちでも最もみすぼらしいたぐいの悪党であった。この男がついに捕らえられた時、誰もがその死を信じて疑わなかった。
 であるから、シャ老がこの男の助命と身元引受を願い出た時に、驚き怨む者は多く居たということである。

 ナフザール・ナフタは樹を見上げた。一抱えではとても利かぬ、どころか、二人、三人、十人でも足らぬ、数十人で手を繋いでようやく幹を廻りきろうかという巨木である。樹は大きく張り出した枝に、数限りなくつけた大ぶりな葉を、風に委ねてざわざわと音立てていた。
「ナフザール・ナフタ、お前はここで暮らすのだ」
「ここでだと?」
 ナフザール・ナフタは狒々のように唇をめくり上げて唸った。敵意の視線に動じず、老人は平然として答えた。
「そうだ。これからのお前の日々の仕事は、そこから見えるものを木の葉に書き綴ることだ。わしが許すと言う迄この樹から降りること罷りならぬ」
 ナフザール・ナフタはちらりと周囲に視線を巡らせる。シャ老に引き受けられて後、かれは三度護送の役人を襲い、五度縛めを抜けていた。しかしかれのその試みは、一度も成功せずにその度捕らえられていた。
 今この場には役人も護衛もおらぬ。だがシャ老の隣に控えていた茶色の大きな犬が、ナフザールの視線を受け、わずかに鼻に皺を寄せた。
「登れ」
 シャ老は木の上を指し、促す。ナフザールが動かずにいると、犬の体を漣のように緊張が走った。ナフザールは慌てて木によじ登った。
「その葉に文字を書くのだ。人を殺さず、憎まずに生きられるようになるまで、そこで文字を書き続けるのだ。ナフザール・ナフタ、おまえは」
 ナフザールは牢の中で、鑿もて叩き込むように教え込まれた字を、不快な記憶と共に思い返した。それはこの国で常に使われる字ではない。神官文字は、今では経典と、それを写す時にのみ用いられる、ほとんど死んだ文字である。ナフザールの知らぬことだが、その極端に丸みを帯びた字体は、かつて紙の存在しない時代に、貝葉、つまり椰子の葉を用いた筆記具の、繊維を破らぬために創り出されたものであった。ナフザールは鉄筆を手の中で転がした。かれの持ち物はその他に何もなかった。
「おまえが邪悪を為すのは、おまえが人間を憎むからだ。おまえは憎むものの間で生きねばならぬ。苦しむのは当然のこと」
 ナフザール・ナフタは木の枝にようようしがみつき、老人の嗄れた声を聞いて心中嘲笑した。この爺は老いたくせに何も分かっていない。おれは人間を憎んだことなどない。人を殺すのにも理由はない。ただそうするのが他の生き方より楽だからに過ぎない。
「だが、ナフザール・ナフタよ、人はそれでも人として生きねばならぬ」
 シャ老は教えさとすように言った。
 ナフザールはなおも嗤った。おれは生まれ落ちた時から人だ。人のおれがただ生きるのが人の生き方でないならば、人として生きるとはどういうことだ。

 ナフザール・ナフタは最初の数日、木の枝にただ座して周りを眺めてみたり、わけもなく木の枝を毟ってみたり、あるいは下帯をほどいて卑猥な行いに耽ったりしていたが、結局シャ老に示された通り、木の葉に文字を書き始めた。他にすることがなかったためである。
 ナフザールは書いた。稚拙な字で、美食、酒、金、女の体について。身体の外に取り出された欲望は何度でも手に取って読み返せたが、それはかつて身体の内にあった時ほどには衝動を掻き立てはしなかった。なおかつ、書き記した後になお身体の内に残った欲望も、また同様に、かつてほど衝動を掻き立てはしないのだ。ナフザールは怪しんだ。怪しんだが、理由を追求する方法を知らなかった。かれはそのことをも記しておき、後で見返して時々怪しんだ。
 ナフザールが文字を書いている間、シャ老は木の下に座して本を読んだり、近隣の村から訪れる人の相談を聞いたり、時には代わりに手紙を書いてやったりしていた。かれはそうして人から対価を得て、己とナフザールの身を養っていた。
 この老人についての逸話は数多い。若かりし頃、今やほとんど歴史上の人物である、フスラー王を説き伏せて貧窮の民のための救護院を建てさせたという。また三百年にわたりこの国と戦火の烟の絶えなかった北のバンダカ国、時の王ナザルナフと三日三晩語らい、遂に侵略を諦めさせ戦に終止符を打ったともいう。
 その偉大なる老人は、供もなく弟子もなく、ここでひとりナフザールの相手をしている。茶色い毛並みで大きな体をした、顎が四角い犬を一頭伴っているのみである。この大きな犬は賢く、よく主の意を汲み、ナフザールが木から降りようという気配があれば立ち上がり、実際に木から降りた時は必ず追って腿に噛みついた。それでも犬は犬に違いない。
「なぜおまえはここにとどまる?」
 ナフザールは問うた。かれを引き渡せと手に手に剣を携えてやってきた一団を、シャが説き伏せ帰らせた日のことである。
「なぜおれをここに閉じ込める?なぜ刑吏に託して首を刎ねようとしない?」
 シャは痰のからんだ声で笑った。
「おまえからわしに話しかけるのはこれが初めてではないか、ナフザール・ナフタ」
 シャは木の梢を見上げた。ナフザールは実際はその下の枝に跨っていたが、特に訂正はしなかった。
「わしがおまえを生かしたのは、誰もおまえを哀れみ救おうというものがいなかったからだ。誰にも哀れまれない者こそを救うべきではないか。すべて人は救われねばならぬ。王も貴族も乞食も盗人も、人であれば哀れまれねばならぬ。救いを求めて差し出す手を持たない者も救われねばならぬ。わしはそう信じているのだ」
 シャ老は答えた。
「わしがおまえをここに閉じ込めるのはおまえが未だ人を憎むからだ。それで解き放てばおまえにとっても世の人にとっても不幸だ」
「おれは人を憎んではいない。ただ殺すだけだ。おれは不幸でもない。不幸を感じたことがない」
 ナフザール・ナフタは苛立った。自分がなぜ苛立つのかもよくわからなかった。シャは空に目を据えてしばらく黙っていた。
「おまえがそう思うからこそ、おまえは不幸なのだ」
 怒りが姿を消し、代わって笑いが込み上げてきた。ナフザールは天を仰ぎ、歯をむき出して大いに笑った。かれは一度も人を哀れんだことがなかった。かれは自分の前に立つ者を誰も、かれと同じ価値があると思ってはいなかった。かれはまた、価値を信じた事がなかった。力は、人は、物は、金は、今日手中にあったとしても、明日には消費され、奪われ、壊れて消え去ってしまうものであった。ナフザール・ナフタは己自身さえ、むしろ己自身をこそ、信じてはいなかった。
「人を哀れまず、人に哀れまれず、不幸であるべき境遇で不幸を感じない。おれは人ではないのではないかね」
 シャ老は黙して答えなかった。
「おれが人でないのであれば、おまえがおれを救うのは無駄ではないかね」
 シャ老はやはり黙したまま、茶色の大きな犬を撫でる。犬は同じく黙ったまま、小さく尾を振った。

 ある朝ナフザールが目を覚ますと、シャ老は木の下に横たわって目覚めてこなかった。小さなひねこびた死体は常の人と変わらず、音に聞こえた聖人とは見えなかった。茶色の大きな犬は、主の体から座布団ひとつほど間を開けて蹲り、やはり死んでいた。
 ナフザールはその様子を見下ろした。もはやかれを縛るものはない。木を降りてもとの盗人の暮らしに戻るのは容易い。
 かれは死体の上の枝に腹這いになり、様子をじっと眺めていた。その屍が今にも立ち上がり歩き出すというように。耳の早い蝿が飛び始め、老人の口を我が物顔で出入りし始めても、なおそうしていた。食物を届けに訪れた村人が死体を見つけ、人々が嘆くさま、死体を運ぶ様子を見送ってのちに、ナフザールはようやく身を起こした。
 ナフザールは木の枝に腰をかけ、手の中で鉄筆を弄んだ。そして書き始めた。老人と犬の死骸について。

 ナフザールは書いた。眼と耳と鼻と舌と皮膚とが捉えたものすべて、鳥のさえずりを、芋虫の肉の味を、肌を打つ雨粒の無慈悲さを、樹皮の匂いを、みどりの芽吹きを、漆黒から藍へ、群青へ、青へと色を変ずる夜明けの海を。
 ナフザールは書いた。かれが過去に経験したすべて、振り下ろした鉈と砕けた頭蓋、抱き合って息絶えた幼いきょうだい、裂かれた腹からはみ出るはらわたを抱えて逃げた女、赤子の頃聞いた歌、住人を皆殺し尽くされた家、そのしじまの中にいずこからか聞こえてきた琵琶の音、貴人の家の土間で踏み潰されていたこおろぎ、死体の肉を奪い合う禿鷲の鳴き声を。
 この世のすべては文字であり言葉であり、同時に文字でも言葉でもなかった。ナフザールの知り得ぬことは文字にはならない。ナフザールの知らぬことをナフザールではない誰かの手が記すことはあれ、誰の目にも見られぬことは、誰にも記されることがない。誰の目にも触れぬ文字が、誰にも意味を持たないように。ナフザール・ナフタはそのことをも書いた。
 今あることもかつて起きたことも実際には起きてはいないことも、ナフザールは同じ情熱をもって書いた。ナフザールのすべてはナフザールの内から取り出され、文字となって葉の表面に踊った。かれはもう美食も、酒も、金も、女の体も欲望しなかった。どんなに裕福な者を見ても羨望の念は生じなかったし、どれほど無防備な者からも、ものを奪い殺そうという意志が起こらなかった。人を憎むとはこういうこと、憎まないとはこういうことであったのだろうか、ナフザールはぼんやりと考え、その思考もすぐに文字となった。
 ナフザール・ナフタが木の上で過ごす日々のうちに、その罪の記憶は人々の間から薄れ、ナフザール・ナフタの名はただ木の上の行者として認識されるようになった。かれが文字を書いた葉は尊いものとなり、信仰あつい者がそれを押し頂いていくこともあった。またたわむれに拾っていく者もいた。だが、かれが書いた文字は誰にも読まれなかった。神官文字を知る者は神殿の中にしかおらず、かれらがそこから出てくることはなかった。
 巨木の緑の葉は生えるそばから文字の群れにあまさず覆い尽くされた。時にハモグリバエの幼虫がその葉を穿ち、人間には読み取れない文字で、新たな何事かを上書きしてゆくことがあった。ナフザールはそのことをも書いた。
 ナフザール・ナフタは今や管である。外界から受け容れたものすべてを指先から書き出す管である。人であることをやめた、その姿はやはり人ではなかった。枝を掴み、引き寄せ、渡るために、全身の筋肉はおよそ人にはありえない形に発達していた。左の掌の皮膚は厚く固く盛り上がり、枝を掴む機能だけを発達させた指は猛禽の如く力強く、足の拇は内向きに折れ曲がり、蹠には枝を挟みつける割れ目が走っていた。しかしその右手の指だけは、書記官の指のようにすらりとしてペンだこを作っているのである。
「ナフザール・ナフタ!」
 震える声がナフザールの名を呼んだ。ナフザールはそう書き、その後に顔を上げる。
「おれの顔を覚えているか!」
 ナフザールは若者の顔について書いた。人品卑しからぬ顔立ち、朱色の唇、肌理のこまかい肌、おそらくは高い身分に生まれついたその顔に、憎しみを溢れさせているのはある種滑稽でさえあった。
「おまえが15年前に皆殺しにした家族の、たった一人の仕損じがおれだ!」
 ナフザール・ナフタはその男の顔も、己の行いも覚えていなかった。だがそういうことがあったと、かれはそのように書いた。
「姿を見せろ!」
 ナフザールは言われた通りに姿を見せた。若者の顔の上を驚愕と恐怖、怒り、そして哀れみの色が走った。ナフザールはそのように書いた。
「おまえが……どんなみじめな姿でも……」
 若者のまぶたが震え、閉じ、再び開いた。絞り出した声はくじけた意志を、強いて掻き立てるようだった。ナフザールはそのように書いた。
「おれの家族の無念が晴れるわけではないのだ、ナフザール・ナフタ!」
 若者はすらりと剣を抜き放った。ナフザールは右手の鉄筆を構えた。武器として使えるものはその他になかったのだ。
 若者は指を剣の柄に絡みつかせたまま、わなわなと震えた。その指が強く握られ、関節が白くなるまで力がこもり、剣を振りあげようとしてためらい、鞘に戻すまでの様子を、首を垂れたかれの後ろ姿を見送りながら、ナフザールは克明に書いた。

 日々はそのように過ぎ去った。ある日は訪れた村人が、巨木の梢に向けて叫んだ。
「ナフザール・ナフタ、降りてきた方がいい」
 ナフザールはそのように書いた。
「嵐が来るのだ、もうじき、おそろしくでかいやつだ。あんたを怨む者はもういないから、せめて嵐が過ぎ去るまでは、降りてきて村で雨風を凌ぐといい」
 ナフザールは木の上からかれを見下ろした。若い男はしばらくそこに立っていたが、やがて諦めて立ち去っていった。ナフザールはそのことを書いた。
 はたしてその夜嵐はやってきた。巨木は若木のように激しく揺れた。稲妻が暗い空を巨竜の如くうねった。ナフザールはそれをも書いた。
 再び稲妻が走り、雷鳴が轟き、稲妻が閃いた。豪雨と暴風が大気をかき回す。枝々があちこちでねじれてもげる。ナフザール・ナフタはかろうじて枝にしがみつき、鉄筆を握りしめて再び文字を書く隙を待った。
 再度の稲妻は巨竜ではなかった。それは獰猛な魔物のように、鉄筆めがけ一直線に襲いかかった。
 巨木は雷にふたつに裂かれ、昼の如く明るく燃え上がった。その出来事は誰の手にも書かれなかった。

 雷にくだかれた巨木の枝は、嵐に手荒く引きずられ、はげしく転がされ、打ち付ける波に川を逆向きに押し上げられ、山奥の地面に突き刺さる間にも、まだ文字のびっしりと書かれた葉をつけていた。誰にも見られないままに、その葉は次第にしなびて朽ち、枝そのものも小枝の端から徐々に枯れていった。
 しかしその生命は死んではいなかった。かつてナフザール・ナフタに文字を書かれた葉をつけていた枝は、ある日まったく唐突に、新たな芽を萌え出でさせた。
 開いたその葉にこまかな文字が書き記されていたことを、人間たちの誰も知らない。

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