仮面の独白 2.病魔の仮面

(長くむしばむような昼が去り、博物館には再び静寂が訪れた。その夜の収蔵品たちはいつものように眠りを貪りはせず、目を覚まして何やらこそこそと語り合っていた。抱き合う精霊の像は交互に囁きを交わし、トランプをする骸骨の人形は、何千回と繰り返した退屈な賭けを止め、新たな物語を話題にして、久方ぶりに盛り上がった。展示室には期待の気配が満ちていた。しかし獣の仮面は沈黙し、もう語ることはないというように、どこか遠くを眺めていた。)
 わたしは病魔の仮面。
(新たに語り始めた木製の仮面は、歪んだ人の顔を象っていた。顔の膨らみ、また潰れたさまは、あたりまえの手で打たれたならば滑稽だっただろうが、ひとかたならぬ打ち手の執念を受けて、身の毛がよだつまでに醜悪であり、なおかつ逃れ得ぬ哀しみを湛えていた。いくたりもの手を渡ったことを感じさせる、やや角が取れた肌は、何らかの染料で黒く塗り込められていた。声はやわらかく聞き取りやすかったが、いくらか首筋の毛を逆撫でするようなざらつきを含んでいた。その響きは花のような南海の魚が持つ毒針に似て、内側に秘める毒の気配を感じさせた。)
 暑い暑い熱帯の国には、様々な魔物が蔓延っている。足音がふたつに増えた時は決して後ろを見てはならない。そこには魔物が追ってきているから。また、道で行きあった者が、食物を頭の後ろに放り捨てるなら、決して足元を見てはならない。そいつの足は後ろ向きについているのだ。
 人間が禁忌を破ったとき、その体に病魔が取り憑く。また、禁忌を破らずとも、病の側から忍び寄ってくることもある。熱病、下痢、錯乱に嘔吐。病の形は様々だ。わたしの国では、あらゆる病は魔物がもたらすものなのだ。
 そんなわけだから、わたしの村には、悪魔祓いの風習があった。誰かが重い病に侵されたとき、長老たちが寄り集まって悪魔祓いの決定が成される。その病人に似せた仮面が打たれ、病人の親族か、親しい者が仮面を被る。石笛とドラムが持ち出され、ぐるりを囲んだ人垣の中で、病人と仮面を被った者が二人で向かい合う。病に侵された病人を真似て、仮面の者は踊らねばならないのだ。
 ドラムと石笛を共として、足を振り回し、飛び跳ね、踊るうちに、踊者は狂熱に侵される。踊りはただの舞踊ではなくなり、体は病に侵されたその人そっくりにのたうち始める。病魔が新たな体を見つけ、衰えた病人の体を離れて仮面に移るためだ。
 踊り踊り踊り狂って、踊り手が倒れた時儀式は終わる。病の快癒が宣言され、病魔の仮面は打ち砕かれる。仮面は必ず壊されねばならないのだ。騙されて仮面に閉じ込められた病魔は、必ず呪いを振り撒くからだ。
 わたしがなんの病魔かだと?それはこれから話すことだ。
(病魔の仮面は言葉を切り、長く轟く笑い声をあげた。ひとそろいの踊る子供の陶器たちが、カタカタと音を立てて身を寄せ合った。その声は変わらず柔らかかったが、隠しようもなく、また隠す気もなく、邪悪さを剥き出しに示していた。)

 今よりずっとずっと昔。魔物が日の当たる中をいつでもそぞろ歩きしていた頃は、悪魔祓いはじつに頻繁に行われていた。その頃の死や病は、今よりもずっと身近だったものだ。しかし時代が下るにつれて、注射と薬が広まるにつれて、悪魔祓いは次第次第に行われなくなっていった。
 わたしの打ち手は村で最後の仮面打ちだった。かつてはほうぼうに居た仮面打ちも、今ではやつ一人を残すのみ。悪魔祓いも長らく行われておらず、病んだ人は病院で治療を受けるようになっていた。打ち手の息子も、仮面打ちを継ぐつもりはないと、はっきりと言っていたよ。打ち手は寂しそうだったが、反対はせずそれを受け入れた。魔物もまじないも最早どこにも存在しないと、やつ自身半ば信じているようだった。
 ふふ。科学というもののなんと無粋なことか。そしてその光の届く範囲の、なんと狭いことか。
(病魔の仮面は嘲笑じみた、悪意のある笑い方をした。祖霊の墓に捧げられる木彫りの立像が、不吉な予感にぶるりと身震いした。)
 だが打ち手は、決して不幸ではなかったのだよ。妻は早くに亡くしており、子は一人しかいなかったが、息子はたくましく頑丈な働き手だった。彼は気丈でうつくしい嫁を娶り、打ち手と三人で住んでいた。嫁の腹にはもう一人の命が宿っており、やがて四人家族になる予定だった。
 打ち手は概ね生活に満足していた。あの日まではな。

 あの日村にやってきた連中がいったい何だったのか、未だにわたしは知らない。あの頃国境で他国とのいざこざがあったと聞いている。反政府ゲリラがいたとも聞いている。政府軍は練度が低く、素行の悪い連中が数多くいたとも。どの勢力もが相手への悪評を流すため、敵の名を名乗ってあえて非道を行っていたとも、また混乱に乗じて全く関係のない連中が略奪を行っていたとも聞く。
 どれでも関係ないことだ。襲われた側にとっては。
 わたしの村は長らく平和の中にあった。村は戦を知らず、悪意を知らず、銃を持った男共が何をするかも知らなかった。
 初めの銃声が鳴り響いた時、村人は誰もその音が何か気づかなかったのだよ。愚かにも音の出処を見に行く者さえいたほどだった。新たな銃声が2、3発響き、彼は無知の代償を払った。男共は牛を追うように村人を狩りたて、程なく道を歩いているのは銃を持った男共だけになった。
 嫁は傷ついて震えながら家に逃げ込んできた。腕と足に銃創があり、ひどく血を流していた。打ち手と息子はどうにか手当てしてやろうとしたが、素人二人が手出しするにはその傷は深すぎた。血は止まらず流れ続け、嫁はほどなく腹を押さえてうめき始めた。
 二人の男は目と目を見交わした。出産は明らかに早すぎた。助けが必要だった、奇跡を起こすに等しい助力が。
 助けを呼んでくると息子は言った。医者か産婆が要るんだ。やめろ、行くなと打ち手はわめいた。こんな状況で誰が助けになど出てくるものか。この子が死に、お前が死んだら、わしはどうして生きればいいんだ。
 じゃあ父さんはおれに、子と嫁を見捨てればいいと言うのかい。息子はさっと顔を上げて報いた。おれは死ぬと分かっていて、こいつをこのまま置いておくのは嫌だ。おれが死ぬよりもこいつとおれの子が死ぬ方が辛いんだ。仮面打ちはそれを聞いて、黙ってしまったよ。後の運命を思えば、彼はこの時黙るべきではなかったのだろうな。
 息子は夜を待って、床板に穴を穿ち、そろりと家を這い出した。打ち手は嫁の手を握ったまま、壁の破れた隙間からその後ろ姿を見送った。
 ああ、神とやらがいるのならば、彼のような勇気ある男こそ救ってやるべきだったろうよ。豪雨をもたらして足音を掻き消してやれば、慈悲深く月を雲で覆ってやればよかった。しかし夜を統べるのは、わたしの如く悪魔の類であったのだろう。その夜の月は明るく、夜に隠されるべきものをすみずみまでも照らし出し、死は男を見逃しはしなかった。
 銃声が轟き、息子はきりきり舞いをして倒れた。這って逃げようとする身体をさらに、2発、3発と銃弾が撃ち抜いた。
 息子はもう動かなかった。打ち手は月に照らされた体を、化石したように見つめていた。
 嫁は苦しげに息をつきながら、今のは何の音かと問うた。私の打ち手は己を取り戻し、大丈夫だ、雷が鳴っているだけだと嘘をついた。その夜はよく晴れていて、雨など一滴も降ってはいなかったのにだよ。あの人はどこ、ここにいて欲しいのに、と嫁はむせび泣いた。大丈夫だ、きっとすぐに戻るからと、打ち手は重ねて嘘をついた。きっとそうでしょう、あの人が私を置いていくはずがないものと、嫁は泣きながら答えた。
(不意に歔欷の声が聞こえた。声の主は胸と腹を巨大に盛り上がらせた、妊婦の石像だった。永遠に子を孕み続けることを運命づけられた女の慟哭はしばらく止まず、病魔の仮面は面白そうにそのさまを見守った。)
 嫁には嘘を見抜くことができなかった。嫁は打ち手の目から流れる涙を見る力さえ、もう失っていたのだから。
 嫁はその夜遅く、血を流しながら子を産み落として死んだ。早産の赤子は母のあたたかい抱擁を求めて、弱々しく泣きながら朝を待たず死んだ。
 こうして、わたしの打ち手は全てを失った。
(病魔の仮面の声は唯一この時、それまでの嘲弄を失った。仮面はそれ自身、己の感情に戸惑っているようだった。仮面は迸る激情を抑え切れずに、長く唸り声を上げた。笑い続けようとするようであり、また声を上げて泣こうとするようでもあった。ややあって、再び語り出した声には醜態を恥じている雰囲気があった。)
 打ち手は息の止まった赤ん坊を抱いて、嫁の手を握って、長い長いあいだ泣いていた。死体が悪臭を放ち始め、やつがようやく泣き止んだとき、その目からは涙ではなく血が流れていた。やつは立ち上がり、木の塊に過ぎなかったわたしを掴み、のみを当てた。
 そして、わたしは打たれた。

 わたしは最初の仮面。わたしのようなものが打たれたことはかつて一度たりともなかった。わたしは祓うこと叶わない病。わたしの呪いを受けるとき、逃れうる者は一人としていない。
 わたしは最後の仮面。今後けっしてわたしのようなものが打たれることはない。わたしはわたしの打ち手に打たれた最後の仮面であり、村で打たれた最後の仮面。
 嫁と孫の屍を傍らに、面打ちはわたしを打ち続けた。わたしの顔は、取り戻してやることも叶わず、鳥獣に食われてゆく息子の顔、夫を喪い、ほどなくしてその後を追った嫁の顔、父母の顔も太陽も知らずに死んだ、小さな孫の顔だった。わたしの体にはのみと共に血と涙が降り注いだ。傍らの死体には虫がたかりはじめ、腐臭は外に咲き乱れる熱帯の甘ったるい花の臭いと混じって、吐き気を催すばかりだった。腐汁が床板に広がり、やつとわたしを浸した。わたしを黒く染めたのは、なにも染料だけではない。
 わたしは最初で最後の仮面。救済ではなく破壊のために打たれたもの。
 わたしは死の仮面。

 腐って膨れ上がり、見る影もなくなった嫁と孫の体にやさしく触れて、わたしの打ち手は打ち上がったばかりのわたしを被った。赤ん坊のように手足を突っ張り、子を生む女のように泣いて叫んだ。そして踊り始めた。
 踊り踊り踊りながら、やつは家を飛び出した。楽の音も人の囲いもなく、やつは一人で踊り続けた。最初の銃弾は足元をかすめ、次の弾は肩に当たった。そして三発目が胸を撃ち抜いた。やつは泣いたが、それは痛みの声ではなかった。死にゆく赤ん坊の泣き声だった。
 やつは倒れた。それでも踊りをやめなかった。その息子そっくりにのたうち回る体に、更に銃弾が撃ち込まれた。踊りは止まった。
 男共は死者の顔からわたしを引き剥がし、狂った男の死を嘲り笑った。
 わたしは打ち砕かれなかった。死の病魔を引き受けたわたしは。
 仮面は必ず壊されねばならないのだ。騙されて仮面に閉じ込められた病魔は、必ず呪いを振り撒くからだ。

 わたしを引き剥がした男の、わたしに触れたその手は生きながら腐り、死体のように変色して落ちた。ほどなく呪いは全身を侵し、男は赤ん坊のように弱々しく泣きながら死んだ。
 面打ちを撃った男はある夜突如発狂した。かれは仲間を5人撃ち殺し、自分の顔を削ぎ落とした。肉の面はまだ生きているように、苦悶の表情をたたえていた。
(病魔の仮面は語りながら、こらえきれないというような忍び笑いを漏らした。その声音はもとの通りに柔らかく、そして邪悪であった。)
 わたしの呪いはそのようにして、ひとりひとりと引き裂いていった。わたしはひとりとして逃しはしなかったが、わたしだけはそのままに残った。
 わたしは彼らがそっくり死に絶える前に、僅かな小遣いと引き換えに骨董屋に買い取られた。私を取ったその手が腐り始めるより先に、次の手がわたしを買い取った。わたしは様々な手の様々な国を渡り歩き、落ち着く先を転々と変えながら、死を撒き散らし続けた。
 わたしはそのようにしてここにやってきた。そしてここに並んでいる。未だ打ち砕かれないまま。
(病魔の仮面は話を終え、低くふつふつと煮立つような笑い声を上げた。その笑い声がまだ消えぬうちに、博物館の照明が灯りはじめた。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?