仮面の独白 1.獣の仮面

(博物館の部屋には日が差さない。日光と外気は実に効果的に展示物を傷つけるからだ。従ってこの展示室には、千の真実と万の虚構を曝け出す日光も、あらゆる秘密を陰翳に包み込む月の光も届かない。慈悲深い夜が訪れ、客が去った後になっても、収蔵品たちは仄暗い電灯の光の中にただただ眠り続けていた。ギターはかつての栄光を思って夜泣きし、サバニは波の夢をみて、タプチャプと寝言をつぶやいた。)
 ミャオーウ、おれは獣の仮面。
(ひとつの声が展示室に響いた。収蔵品たちは夢を破られ、何事かと声の出処を求めた。それは黄色い獣の頭を象った、紙の張り子の仮面であった。塗られた絵の具も新しく、竹ひごでひげを立てられたこっけいな顔の仮面は、獣のしわがれ声で己の来歴を語りはじめた。)
 なにゆえにこのおれが造られたか、人間共の誰も覚えていない。紙と木ぎれでこしらえた、この姿こそおれなのだと、奴らはそう思い込んでいる。
 だがそうではない。そうではないのだ。おれが生まれたのは古い古い時代、そう、大地を神と悪霊が歩いていた頃のことだ。
 おお、闇深き時代よ。人間がはだしの足でこわごわと地面を踏んでいた頃、奴らは何一つ支配していなかった。木々を猿がわたり、川には鰐が睡り、大地には鳥や鼠がおり、精霊共もそちこちを飛び跳ねていたよ。だが、大地にも、川にも、木の上にも、このおれに勝るものはいなかった。
(獣の仮面は満足げにごろごろと喉を鳴らした。頭頂部を割られた狼の頭蓋骨が、その音を聞いて不満げに小さく唸った。)
 ミャオーウ。おれこそはジャングルの王。おれは獣であって獣でなかった。おれは肉を持った神、まだらの毛皮をまとった悪霊だったのだ。おれは渉猟する死、爪もて奪う夜。虫のすだく音、こうもりの囀り、這いずる毒蛇を伴として、おれはジャングルを歩き回ったよ。風吹く夜はおれの足音を聞き取ろうと、屈強な男さえ黙り込み、音なき夜はおれを退けようと、死にゆく老人すら泣き喚いた。
 おお、そうとも。
 あの時代、祭りはおれの牙を逃れるためのものであったのだ。
 踊り子が地を踏み鳴らし叫び立てる、ハッ!ハッ!ハッ!ハッ!ジャガーの毛皮とジャガーの仮面が男を隠し、奴はつかのまおれとなった。篝火があかあかと燃え、ドラムと弦がおれへの呪いを歌う。おれは逃げる、踊り子は追う、舞い散る火の粉と汗の間に、夜はくろぐろととぐろを巻いていた。
(呪術師の杖に括られた山猫の頭蓋骨がカタカタと震え、投げ槍は勇壮な狩りの歌を歌った。二度と奏でられることのない楽の音を思い、タン・ドラムはひそかに落涙した。)
 人間共は愚かにも、そんな儀式によっておれを祓いうると本気で信じていたのさ。おれはその夜ひそかにジャングルを抜け出し、夜と夜を伝って歩いた。人間の王を詐称する者に、誰がまことの王であるかを教えてやらねばならなかったのだ。叫び声がおれを隠し、火の粉は夜の深さをいや増した。
 おれは追い立てられ、汗と血にまみれて王の前に伏した。火とドラムが四方から迫り、おれにはどこにも逃げ場がなかった。王が弓に矢をつがえた。おれに矢を射込み、おれの仮面を剥ぎ取り、火に投げ込むのだ。だが。しかし。
(獣の仮面は語りやめ、やにわにあぎとを開いた。ひえびえとした展示室の闇に、ジャガーの咆哮がとどろいた。華麗な衣装に縫い込まれた鳥の羽毛は我先に逃げようと羽ばたき、大鎧さえきしり声を上げ身をすくませた。それは古い古いジャングルの悪夢、人間が未だ文明の光を知らなかった時代から届く声だった。)
 おれこそはジャングルの王。人間の王はとりどりの羽毛で頭を美々しく飾り立て、腰におれの毛皮を巻いて、杖と剣を手に立っていたが、奴は決して、決してほんとうの王ではなかった。奴の目は恐れ、おれに屈服していた。おれは前足で王の頭を打った。熟した果実の落ちる音がして、奴の首は折れた。おれは死んだ王を踏んで玉座に立った。人間共は泣き叫び、頭を地に擦ってもだえた。奴らは誰が王なのかを知り、その魂はおれの前にひれ伏したとも。
 だが勇者、獣の面の戦士よ。奴だけはおれに戦いを挑んだ。戦士は面を被ったまま、王の落とした狩りの毒矢に駆け寄った。奴は毒矢を拾い上げ、おれに矢を撃ち込んだ。
 おれは尻に矢を受けて吼え、奴に跳びかかった。奴は仮面越しにおれを睨みつけ、短刀を抜いて構えた。おれたちは転げまわり、互いに互いを引き裂こうとした。おれの爪は奴を切り裂き、短刀がおれの皮を裂いた。奴の眼は怒りと憎しみをたたえていたが、勇者よ、おれは奴を憎みはしなかった。ただ殺すために戦った。おれが奴の胸を蹴って離れ、再び喰らいつこうと牙を剥いた時、奴は再び毒矢を構えていた。目前に開いたおれのあぎとに向けて、奴は恐れず弓を引き絞った。
 奴は射ち、殺した。人間共は歓声を上げた。奴らはおれの毛皮を剥ぎ、おれを火に投げ込んで肉を食った。
 奴は優れた狩人だった。油断ならぬ勇者だった。奴はおれの毛皮をまとい、ジャングルの王となって森を駆けた。ジャングルの獣共はおれの爪を恐れるが如く、奴の足音を恐れて縮こまり、おれもまた奴の力を認め、奴がおれの領地を歩くことを許したとも。
(獣の仮面はなぜか満足げに敗北を語った。ごろごろ鳴る喉の音が広い展示室の隅々まで届くほどに、仮面は己の死を楽しんでいた。)
 ジャングルの勇者、ジャガーの勇者、おれの勇者よ。だが勇者にも、日が落ちるように、大木が枯れるように、衰える時は来る。最期におれが見た奴は、目は黄色く濁り、髪は白く、歯は抜けて歯茎が黒くくさっていた。おれの皮、ジャガーのまだらの毛皮を奴はもう身につけていなかった。弓を引く手は震え、毒矢を取り落としたよ。奴は小刀を構え、おれを突き刺そうとした。奴の目はおれを映し、恐怖と憎悪に揺れていた。
 おれは打ち、殺した。ジャングルは奴を引きずり込んだ。かつての時代には、全てはそのようであった。

(投げ槍が長くため息をついた。熊の毛皮は腹を裂かれた痛みを思い出してうめいた。再び展示室が静まり返るまで、獣の仮面は口をつぐんで待った。)
 ミャオーウ。懐かしきあの時代よ。だが全ては変わりゆく。
 日は昇り、月は沈み、国は滅び、ジャングルは燃える。大地すらそのままではいない。年月に男の腰が曲がるように、ジャガーの毛皮がすり切れて朽ちるように、何もかもが変わっていく。
 今のおれは祭りの日の滑稽な見世物。首に縄をかけられて民衆の前を引き回され、焚火に投げ込まれ燃やされる。踊り子のステップはおれを追い立てる、歓声と共に、笑い声と共に。誰一人おれを恐れはしない。おれが何者であったのか、知るものは一人としていない。
 そしておれもまた、そこにいた。おれは鎖につながれ、檻の中にひざまずいて、おれの追われるさまをぼんやりと見ていた。おれはやはり、獣であって獣でなかった。おれはジャングルを知らず、血と夜も知らなかった。おれは祭りの飾り物。かつてありしジャングルの象徴。人間の営みを引き立てるため、ただそこに置かれる肉の彫像であったのだよ。
 おれは焼かれはじめた。煙がおれの鼻をくすぐり、おれはくしゃみをして、おれに訝しげに目を向けた。
 おれもかつての如く炎に焼かれながら、おれのまだらの毛皮を見た。
 そうしておれは、かつてのおれを思い出した。ジャングルの王であった時代を。
 おれは吼えた。再び王となるために爪を振るった。爪は鎖を引きちぎり、檻の錠を砕いた。おれは跳ね上がって駆け、真の王は誰かと示すため、思い上がった王を再び地に這わせてやろうとした。
 ああ。だが。ジャングルはあまりに遠く、かつての時代もまた。
(獣の仮面は黙り込んだ。その物語はこれで終わりかと、短気な楽器共がざわめき始めた頃、獣の仮面はようやく口を開き、再び語り始めた。)
 人間共は誰一人勇者ではなかった。おれを倒す栄誉はなく、おれの牙と爪を掻い潜る必要もなかった。奴らは銃を向け、おれは撃たれた。おれは血にまみれ、再び吼えた。だがおれの声はもう、人間を恐れさせはしなかった。
 ミャオーウ。いかに月日が経とうとて、再びおれがジャングルを、ジャングルがおれを取り戻す事はない。
 おれを撃った男は、おれを憎みはしなかった。おれを見る奴の目に浮かんでいたのは、弱者への憐憫の念だったのだ。
(博物館の電灯がふっと灯った。それはほどなく人間の訪れるしるしであった。獣の仮面は今度こそ語りをやめ、再び生者の時間がやってきた。)

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