「あなたの言えない世界」

言語学界隈の人たちでAdventorをやるということでお誘いいただいたが、考えてみればあんまり芸も引きもない人間ということで、とってもゆるーい話を一席。


前置き:「あなたの知らない世界」と境界

子どものころ、「あなたの知らない世界」というTVの怪談番組があったのを覚えている。細かな内容を覚えているわけではないが、ワイドショーで怪談話のコーナーをやっていたなという記憶がある。今調べてみると1973年から1997年まで続いていたということなので、かなり息の長いコーナーだったようだ。自分はそのころから(今でもだが)怪談や奇妙な体験談を聞くのが好きで、どうしてそんな体験をしたという人が出てくるのかを考えるのが楽しかった。

「知らない世界」は、あたりまえだけれど「知っている世界」とセットになることで浮かび上がってくる。目の前に現れた世界が「怪」だということを認定するためには、「常」の世界がどこからどこまでなのかを考えて境界線を引くことになる。透けていたり、途中で消えたり、物理法則や常識に反しているものは「怪」だ。あるいは、赤いワンピースの女、深夜の子ども、鎧兜を着た男、「常」の世界ではちょっと見かけない状況が現れると「怪」になる。スーツを着た不透明度100%の中年男性が昼間に交差点で信号待ちをしていたら、「怪」だと認定はされないだろうなと空想してみたりする。

「あなたの言えない世界」

さて、ここからはことばの話。

自分は日本語を題材として言語の研究をしている。研究の中で、ある言語表現の容認度について日常的に考えている。この表現は「言える」のか「言えない」のか。

そんな風に過ごしていると、思わぬところにぽかっと「あなたの言えない世界」があることに気が付く。単純な表現(の組み合わせ)で言い表せても良さそうな状況なのに、なぜか言い表せない―たとえば、ずいぶん前に知人と話題になったのは次のような例だ。

(1) 雪が降ってほしい。
(2) 雪が降らないでほしい。
(3) 健康でいてほしい。
(4) 病気でいないでほしい。
(5) このニュースは嘘であってほしい。
(6) このニュースは本当でないでほしい。
(7) あの人は無関係であってほしい。
(8) 犯人じゃないでほしい。
(9) 委員長に選ばれたのはA氏であってほしい。
(10) 委員長に選ばれたのはB氏じゃないでほしい。

「~てほしい」は依頼にも使われる表現だが、ここでは願望と取りやすい例を並べてみた。「願望」の用法について分けて書かれている日本語文法本(探してみると意外と多くない)の例として『基礎日本語文法』を見てみる。

「動詞テ形+「ほしい」」は、他人に対して、その人の動作・状態を望んでいるという意味を表す場合と、ある事態が生じることを望んでいるという意味を表す場合とがある。

益岡隆志・田窪行則『日本語文型辞典』

不思議なのは、願望の「~てほしい」と否定、そして「状態」が絡み合う場合だ。上に並べた例だと、(4)、(6)、(8)、(10) がこのケースに当たる。細かく言うと、(3)-(4)のような「○○でいる」という表現は状態っぽさが少し薄れるかもしれない。問題は、[[状態+否定]+願望]の組み合わせがえらく言いにくいということだ(上の引用で「事態が生じることを望んでいる」と書かれているのも、巧妙で注意深い書き方だなあと改めて味わった)。

ある状態を望むというのは、状況として全く不思議ではない。「ある状態でないこと」を望むというのも、同じくらいありうる状況に思える。しかし、なぜかそこに「言えない世界」がある。もちろん「犯人じゃないでほしいなあ。」のかわりに「犯人であってほしくないなあ。」と言えば近いことが言える。でもその2つは同じことなのだろうか。あと、後者はずいぶんと回りくどい。

「言えない世界」の境界を考えること

こういうような「言えない世界」の話を日常で知り合った人にすると、やんわりと薄い幕をおろされる。まあ、怪力乱神を語ったり「あなたの知らない世界」の話をするのと似たようなものだと思えば、そういう反応で間違いないのだと思う。実際に使える表現、役に立つ表現を教えてくれたほうが相手も喜ぶだろうし、手に取れる、物理的に存在するものを対象にしたほうが地に足がついた状態でいられるだろう。

それでも「あなたの言えない世界」について考えるのには意味がある。「知らない世界」の場合と同じく、「言えない世界」と「言える世界」についても、セットになることで初めて見えてくるものがある。「言える世界」の境界を何が定めているのか、私たちが言葉を使うときに、どんな法則や常識やその他の要因に影響を受けているのか。

ちなみに、上述の「願望+否定+状態」の話をしていた時、その場にいた人の中で「「犯人じゃないでほしい」って言える気がする…!」と言い出した人がいた。意外と人それぞれ、見えている世界は違うのかもしれない。

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