見出し画像

Hashire の歌詞の意味

今回はデモ音源を公開した"Hashire"の歌詞について説明していく。The Band  Kawaemiは佐野とその知人によって結成された二人組ユニットである。その知人が今回歌詞を担当し、その内容をチャットで送ってもらった内容をそのまま記載する。なので[08:02]などの時間表記はチャットでの送信時間であり動画の時間表記ではないので悪しからず。

最初は歌詞の通りに、高架下,橋脚に凭れかけてある錆びれた自転車と、干乾びている雑誌を見つけて、青年の衝動みたいな感じで、こんなとこ出てってやる、って思ったけど行く当てもないし目的もない,こういうのは年齢特有の鳴き声みたいなもんで、その時は家に帰ったと。
[08:02]
このところは、感情があんまない感じで、使い古されたというか(本当はまだまだ人生はあるのに)ローテンション
[08:03]
普段から考えてることとか感情が、ふっと,ほんの少しだけ超えたってかんじ
[08:03]
次の場面は、いきなり自転車の修理をしてるんだけど
[08:04]
これはさっき出た自転車で、錆びれて捨てられている自転車を修理してまた使えるようにしようって感じ
[08:06]
でも、ぼろぼろの状態だから替えなければいけない部分が多すぎて、新しい物を買ったほうが安かったんだよね
[08:07]
その部品を買えるくらいの小遣いがたまっていたのは、これまでに殆ど使ってこなかったからで
[08:07]
この子の無気力感とか表せていたらなと
[08:08]
次の、テセウスのチャリってのは、テセウスの船っていう思考実験をもじってて
[08:10]
テセウスの船は、部品をだんだん変えていったら、それは元の物なんだろうかみたいな
[08:13]
で、この前のところの、自転車のパーツを殆ど取り換えて新しくしました、ってとこの補強
[08:15]
テセウスの船みたいな話のことを、メレオロジーっていって、部分と全体について考える分野なんだけど
[08:16]
語源の’部分’がギリシャ語で”メロス”
[08:19]
この朴念仁~洒落臭い街へ 走れメロスの冒頭当たりの 「メロスは、村の牧人である」「野を越え山越え、十里はなれた此このシラクスの市にやって来た」からで
[08:19]
牧人→朴念仁 シラクス→洒落臭い
[08:20]
自転車がどこか自分を待っている場所へ連れて行ってくれるんじゃないかって期待の後に
[08:22]
結局この自転車をこぐのは自分なんだ、って期待を冷ます
[08:23]
ここで、一番最初の「こんなおんぼろな街(廃道,錆びた自転車,干乾びた雑誌)をでてってやる」と
[08:25]
力強く踏み出して、最初は些細な感情で、これまではすぐに消えてしまような熱だったけど
[08:25]
今度こそ最後まで、やり切って見せるんだと意気込んだはいいものの
[08:26]
メロスのように、自分を待っている親友も,命を懸けるような覚悟も,そもそも目的すらも定まっていない
[08:27]
それで、いつものように熱が冷めちゃって、結局ちょっと離れたところにある公園まですか進んでいない
[08:27]
ここも廃れている
[08:29]
なんとなく持ってきていた干乾びた雑誌をゴミ箱に捨てて、ひと段落ついて家に帰ることにした
[08:30]
そんな感じをイメージした曲です
[08:30]
でも、この子は錆び自転車を復活させることができたし、(雑誌は汚れてるからリサイクルできない)
[08:32]
もう使い古されているようでも、修理とかすればまだまだ使えるんだ
[08:32]
人間も同じようなもんじゃねって
[08:32]
長文失礼しました
[08:34]
人間もっていうか、いろんなこと
[08:35]
この子はこの後も修理した自転車に乗っている設定

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?