自己紹介〜日本に来る外国人の方々と行政書士の仲間の両方をサポート~
私が経営している【さむらい行政書士法人】は、主に外国人の入管業務(ビザの取得など)を中心としたビジネスで、業界トップクラスの業績を誇っています。
最初は自分1人でスタートしましたが、法人化することで自分のノウハウを若手社員に伝え、今はさらに多く行政書士を育成するためのセミナー事業も行うことで、ビジネスを拡大してきました。
じつは私が行政書士になったのは30歳のとき。20代は、社会保険労務士事務所勤務、海外放浪を経て人材会社勤務、中国での日本語教師、韓国語スクール経営という珍しいキャリアです。行政書士としての資格を取得するための勉強を始めたのは28歳、かなりスロースタートなんです。
1、生い立ち~二流大学を出て、20代前半はやりたいことを探す日々~
私は福島県会津の公務員の親のもとに生まれました。中学までは勉強ができたので、中心市街地にある進学校の男子高へ進みました。ところが、小さい田舎で多少頭が良かったとはいえ、高校では完全に落ちこぼれました。男子しかいないという環境に違和感を感じていた私は、得意科目が英語だったこともあり、大学進学では女子が多い英文科を選択。決して一流とは言えない東京の大学に滑り込み上京しました。
大学3年のときは就職氷河期。2流大学で特筆すべき経験もない学生が、就活戦争で勝てるとは思えず、学歴ではなく資格で勝負しようと決めました。とはいっても国家資格はどれも大変そうで、比較的ラクそうに感じた社会保険労務士を目指し勉強を始めました。
試験は年に1回だけ。初年度は落ちたものの、2年目は手応えを感じました。大学も卒業していたので、「たぶん合格」という触れ込みで社会保険労務士事務所に就職しました。が、結果はギリギリ不合格。となれば、また1年頑張ったら確実に合格できると思いますよね。ところが、すでに社会保険労務士事務所で働き始め、実際の仕事内容を知った私には、自分が将来的にやっていく仕事として魅力を感じることができなかったのです。そのため、1年ほど勤務したのちに退職し、多少貯めたお金を持ってバックパックでの海外放浪を始めました。
旅はタイからスタートし、オーストラリアを経て、ハワイへ。楽しかったですよ、ハワイ【以外】は。誤解しないでください。ハワイは本当に素晴らしいんですが、高級リゾートホテルや楽しそうなアクティビティなどを利用できない貧乏バックパッカーの私には、楽しみのほとんどは指をくわえてお預け状態。本当にくやしくて、もっとお金を稼げるようになろうと思いました。
帰国して大手の人材系企業に入りましたが、なんと3ヶ月で退社します。私が以前勤めていた社会保険労務士事務所は従業員が4人程度でとてもアットホーム。敬語を使う必要もないような事務所でした。ところが大企業という組織は縦社会だったり、先輩後輩といった仕事以外のたくさんのルールがありました。社歴が浅い社員はそこを叩き込まれるのですが、私には耐えられませんでした。そんなことになんの意味があるのかまったく理解できなかったんです。じつは、大学で入った体育会系バスケ部でも、部長から敬語や態度について注意をされてすぐに辞めたことがあります。日本の縦型組織や体育会系的な上下関係的なものには、昔から合わないと思っていました。でも単に生意気なやつだったとも言えますよね。
人材会社を辞めた後は、日本の堅苦しい企業は合わないと感じ、中国で日本語教師として働く仕事に申込み、上海での生活を始めました。25才の時です。
2、人生の転機~ミッションに気づき邁進する。成功を掴む~
語学教室事業で成功し、そこで需要を感じた行政書士の仕事をスタート
上海で24歳の中国人IT起業家と出会いました。その時、私は25歳。ほとんど同じ年齢で、自分のビジネスをスタートさせている彼との出会いによって、自分も何かビジネスを自分で始めたいと思うようになりました。
1年後、上海での日本語教師の雇用契約更新を断り、帰国して自分のビジネスを始める準備をしました。当時は『冬のソナタ』人気で日本は第一次韓流ブーム。韓国語は話せないけど、語学を教えるためのノウハウは日本語教師として身につけました。そのノウハウを韓国人留学生たちに教えることで、日本人向けの韓国語教室をスタートさせました。WEB集客もその時にかなり勉強しました。ブームに乗ったこともあり、一気にビジネスは拡大。
一方で、外国人留学生や教師として働いてもらう外国人のための就労ビザ取得が、大きなネックになることに気がつきました。同時に、今後、日本の少子高齢化を考えても、外国人労働者が日本にとって必要となることもわかりました。
語学教室ビジネスをスタートさせて3年目の28歳の時に、行政書士の資格を取るための勉強を始めました。外国人のビザ取得を自分でサポートできるようにしたいと思ったのです。韓国語教室は競合他社も増えて競争も激化し、一方で韓流ブームは落ち着いてきていました。次なる一手を打つにはちょうどいいタイミングだったと思います。
韓国語教室を経営する一方、30歳で行政書士としてもスタートしました。教室運営で学んだWEB集客の手法を使えば、お客様は簡単に集めることができ、かなり速いスピードで実績を重ねることができました。
ただ、実務においては多くの失敗もしましたし、しかしながらやっていくうちにうまくいくコツも掴み、自分なりのノウハウが蓄積されていきました。入管業務は日本では比較的最近注目を集めるようになったお仕事で、法改正も常に行われています。行政書士の資格を取ったからといって、誰でもすぐに入管業務ができるものではありません。そのため、サポートを求めている外国人の需要に対して、供給不足を感じました。
夢を持って日本にやってこようとしている外国人、また日本で結婚した人たちなどが日本でビザを取得することができないということは、彼らのキャリアや人生を大きく変えざるを得ない問題だったりします。期待に胸を膨らませていた外国人たちが涙する姿もたくさん見てきました。日本企業の方達にとっても労働者不足は深刻な問題です。そこで思い切って法人化し、事務所を拡大し、さらには自分の培ったノウハウを同じ行政書士に伝えることで、より多くの人たちをサポートできるようにしました。
3,こんな人生を経て目指すもの~常に柔軟な価値観を持って仲間たちをサポートし続けたい~
現在、現場は私が育てたスタッフに任せることで、私は人材育成をメイン業務としています。どこよりも多くの実績経験を積んだことで得られたノウハウを若手行政書士伝えることで、多くの外国人の方たちや日本企業のサポートができるようになることはもちろん、行政書士としてスタートしたばかりの人がすぐに収益化できるようになってもらうことにも貢献できています。行政書士になってもすぐに仕事にありつけるわけではありません。生きていくための最低限の仕事と収入を確保した上で、彼らが自己実現していけるようなサポートをしたいと思っています。
私は2017年から日本を離れ、マレーシア(2017~2019)→タイ(2019~2020)で1年の半分ほど暮らしています。行政書士の業界はとても狭く、仕事も慣れれば比較的ルーティンです。そのため、日本で見ている景色が非常に限定的なように感じ始めたことが理由です。
思いきって海外で暮らし始めてみると、文化や制度の違いで同じ物事でも国によって、民族によって判断方法が違ってきます。日本だったら当たり前のことが、海外では当たり前ではないんです。常に、物事を疑って見る目を持つこと、柔軟な価値観を持つことができています。
そして何よりも大きいのは、外国に外国人として暮らすことで、いかに手間のかかる手続きがたくさんあるのか、を実感しています。日本にやってくる外国人の方達と同じ体験を持つことで、常に自分の仕事に新しい視点を持って取り組んでいけると思っています。
これからの時代、AIの進化や行政の電子化でなくなる仕事として行政書士も挙げられています。でも、私は例えAIがどんなに進化しても、行政書士をやっている人の仕事が奪われることはないと思っています。なぜなら、人間でないとできない細やかなサポートや心の通い合いは、常に求められるからです。
また、結局は時代の変化に合わせて柔軟にシフトしていく仕事力があれば、どんな仕事でもできるはずです。自分はそんな人間でありたいし、私が関与している多くの行政書士の仲間にも、そうであって欲しいと思っています。
行政書士になろうとしたぐらいの人たちは、みんな勉強好きなはずです。時代の変化に合わせて必要となるスキルを勉強することで、きっとどんな未来が待っていてもやっていけるのだと信じています。
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