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必要のない人間【透明人間】

私はこの職場に必要のない人間らしい。
皆、私のことを透明人間かのように接している。

朝の職場は、とにかく忙しい。前日からの引き継ぎ、取引先からの問い合わせ、ミーティング…目まぐるしく時間は過ぎる。
私が相手に仕事上で話しかけても、その相手がすぐ他の人に話しかけられるとそちらの会話が先行する。だから私は、メモを書いて話しかけた相手のデスクに、そっと書類を置く。
隣に座っている同僚は器量が良く、協調性がある。とても人気者だ。
他の課から来る女子は皆、その同僚目当てに話に来る。私が席を外していると、すぐ私の椅子に座り話し込む。私が戻ってきてもお構いなしに席を離れない。

そういった扱いだ。

別に会社の同僚と仲良くなりたいわけではない。
良いのだ、これで。
私がこの会社の人間たちと合わせようと思ったら、とんでもなく心が疲弊してしまう。
透明人間でも心はある。透き通っている心は、ちょっとした些細な言葉でも濁ってしまう。
それが嫌だから関わりたくないのもあるのだ。

会社の愚痴
仕事の愚痴
上司の愚痴
同僚の愚痴

『いい加減にしてくれ』と思うばかりだ。
そんな感情が渦巻く会社の中で、私はポツンとひとりでいる。
誰と関わるわけでもない。それが一番良いとさえ思っている。
私は淋しい人間なのだろうか…


ある時、付箋のメモを渡された。『少しお話しませんか?』
彼女は耳が聞こえない。障害者枠で雇われている人だった。
私はビックリしたものの、なんだか彼女の笑顔に惹きつけられるように、仕事帰りにカフェでお茶をすることになった。

彼女はいつでも持ち歩けるメモ帳を持っていた。筆談で会話をするのだ。なんとも新鮮だった。
読書が好きだと言う。本の世界に没頭できて、時間があっという間に過ぎるからだ。
そういうことで楽しく時間を過ごせるのは、心が穏やかになって気分も晴れる。
彼女もまた声が発せられない分、透明人間扱いだった。やはり、気分は良くないと悲しげな顔をしていた。しかし、仕方がないことだとも言っていた。
私と同じような気持ちを彼女も抱いていたのかと思うと、やるせない気持ちになった。

メモ帳が瞬く間に文字でいっぱいになった。彼女の文字は、彼女の声。
私は久しぶりに人の温もりを感じた。透明人間ではないことを実感した。
彼女が私を必要としてくれている。私もまた彼女のことを必要だと思う。
たったひとりでも良いのだ。私という存在を理解してくれれば、それで良いのだ。

帰りの電車は、いつもとは違う風景に見えた。
透明人間の心に透き通った水が流れている。清流のように澄んでいる。心が穏やかでささくれ立っていない。
私が持っていた書類の裏紙にも、彼女とのやりとりした会話が書かれてある。
帰宅してからも彼女の書いた文字を見返しては、その時の情景が思い起こされ顔がほころんでいた。

それからというもの、私はメモ帳をいつもポケットに忍ばせるようになった。
彼女に会ったら、いつでも会話ができるようにと…

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