「袴田事件再審取消判決」で憂うべき本当の問題
カタいよ。カタ過ぎるよこのタイトル。
とは言え仕方がない。今回もスルーをするには惜しいこんなお題が来ているからである。
袴田事件再審認められませんでしたが、この国の司法は大丈夫でしょうか
まず、このお題を投稿された方に言っておく。
大丈夫かどうか心配なのはあなたです。
なぜか。これは見知らぬ(知人かも知れんが)第三者に対して、先日の東京高裁判決の結果が不当判決であり、そんな判断を下している今の司法の有り方は問題ですよね、おかしいですよね、と言いたいのであろうと思う。だとしたらおかしいのはあなたですよ、投稿者さん。
まず、今回の東京高裁判決が不当か妥当かと言うことさえ、私にはわからない。正確に言えば判断のしようがない。従ってあなたが今回の判決を不当だと断じた理由もわからない。そして不当だと言って良いのは、元被告の親族や支援者の皆さん、弁護人団の皆さん、そして一審の静岡地裁を判じた裁判官だけだし、妥当だと言って良いのは検察側と警察関係者だけだ。あなたがそれを不当だと感じていて、高裁判決に不服があることを「この国の司法」と言う大きな客体で論じるべきではない。況してその結論ありきで私と言う第三者に意見を求める風でいながら、その実は「この国の司法はおかしい」と言う結論を引き出そうとする誘導的な問い方はペテン師の手法だ。それが罷り通るほうが、この国の司法より断然おかしい。あなたの結論ありきで、私は動かない。私はこのコラムで何度も言っている。
私はあなたの思考代弁者ではないと。
もちろんこれが単に「袴田事件再審取り消し判決について」と言うだけだったら知らねぇよの一言でスルーしていたであろう。高裁がそう言ったんならそうだし、不服なら特別抗告して最高裁で争うことになる、ただそれだけのことだ。ただ、そのことを持って「この国の司法は大丈夫なのか」と言う大きな客体を持って来て論じようとするその魂胆に私は業腹なのだ。だから取り上げた、或いは「曝した」と言っても良いだろう。そのくらい私は怒っているのである。再審開始からの無罪判決が既定路線だと思い込む、その思考停止状態こそが現代社会の憂いだ。
そして、問題は東京高裁の判決そのものではない、もっと別の所にある。この記事だ。
いまやDNA鑑定と言う技術は様々な問題に対して功を得ているし、DNA鑑定によって冤罪であることが明らかになった事件も有る。従ってDNA鑑定の結果とは、最早十分証拠能力を持っていると言って過言ではない。だが今回、その鑑定方法そのものが否定されている。問題はそこだ。つまるところこれは「本田鑑定」と呼ばれたその方法そのものへの科学的な疑義であり、その点が最大の争点になっていたのではないだろうか。
世間一般の人々にとって学者とは、その分野において第一人者であるはずである、と言う思い込みから学者の無謬性を鵜呑みにしている可能性があるが、その点は一つも科学的ではない。その一方、現在では誤りである、あるいは有用性に疑問を呈する手法であっても、何らかの発見された事実によってその誤りが覆ることもある。
科学とはそういうものだ。
リーマン以前の世界で「平行線は交わる」と主張しても、コペルニクスからガリレオ、ケプラー、そしてニュートンによって確実にされた「地動説」をそれ以前の世界で主張しても、恐らく物を知らぬ阿呆とされ、袋叩きに遭っていただろう。だが現在ではユークリッドの平行線公準を鵜呑みにすることは科学的に有り得ず、天動説を信じて疑わぬ者はごく一部の保守的な宗教信徒であるに過ぎない。
つまり、今司法の現場において一番憂うべきは、そうした科学の進歩に法曹の世界はちゃんと追随できているのかと言う不安だ。静岡地裁は弁護側の提出した鑑定結果を元に再審開始を決定し、東京高裁は検察側の報告書を元にその決定を棄却した。一見当たり前のことのように見えるが、その学者は本当にすべてにおいて公平足り得たか。弁護側の、検察側の益になるための、ただの神輿になっていないか。不安なのはそこだ。
裁判も結局のところ、人が裁く。間違いが有ってはならぬよう細心の注意を払っていたとしても、そこには「人であるがゆえの」過ちが存在する。「人であるがゆえの」救いが存在する。そのどちらもあるのが法廷であり、裁判官なのである。
素人判断は、とかく目先のことに囚われがちなのだ。
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