「Hagex氏殺害事件」はネット社会の夜明け前か

まぁ当たり前にニュースになっているし、話題性も高じて界隈では頻々にやり取りが為されている一件であるが、その中で上がってきた考察記事をベースにして、今回のコラムは進めていこうと思う。こんな記事。

何と言うか、非常にデリケートに辺縁に布石を打って地を固めたような記事ではあるが、ちゃんと主張するところは主張していて、何が言いたいの結局みたいな記事にはなっていない。プロらしい良い仕事だと感じた。

で、だ。本文中で筆者が仰っている主眼は、実はタイトルほどシンプルではない。ちょっとした現国の論説読解の問題にしたら面白いんじゃないか、と思える程度の複雑性を持っている。逆に言えば、その複雑性の中にご自身の本音を隠して、より全体をオブラートに包むようにしたことで、ちょっと本質が見えにくい。

いわゆる「他者攻撃癖」と言うもの自体が「病」なのではなく、そうした性格を持った人間がぽこじゃか出てくる現状の「社会の病理」であり、その背景にはお仕着せの社会性や協調性と言うものが単なる同調圧力にしか感じられなくなり、日本は良い国だと思っているけれど同時に生き辛い社会だと感じることによって内在されたコンプレックスこそが、その「病」の正体だ、と言うのが私の場合の回答になろうか。満点は貰えそうにないが。

翻って、私は実はそう思っていない。「日本が良い国だ」と言えることと「生き辛い社会だ」と言うのは、別に表裏一体の位相構造足り得ると思っている。なぜなら日本人は、いや、日本の庶民社会と言うものは基本「外っ面の良さ」だけで成り立っているからだ。

そのことは筆者がご指摘なさっている戦前戦中の空気感と、現代の社会性病理を同じ天秤に掛けても、あまり意味がない。「外っ面」と言う体面を取り繕う実体としての経済の時代背景が等質ではないからだ。仮にそれがコンプレックスになっているのだとしたら、日本人がそもがら虚勢を張ってまで「日本は良い国だ」などと言うのは考えにくいし、ここで言う「戦前」、つまり大東亜戦争前と言う割と輿論そのものがイケイケだった時代の――そう仕向けるためのプロパガンダも盛んだったのだけれども――一種の徒花と、現代日本が至るところに抱え込んだ喪失が生み出した虚無感による余裕の無さは別物なのではないか、と。

私は割と自分の主張は何度でも繰り返すたちなのだが、ネットはリアルの延長線上にあるものだ。それを筆者は「ネットやSNSは単なるツール」であると説明している。言わんとしていることはだいたい同じで、刃物が人を殺すのではなく人が人を殺すのである、と言う公理に沿えば「ネットが人に投石するのではなく、人が人に投石する」のである。ただ、その理屈を単純に今回の事件の図式に当て嵌めることには、少々無理があると私は思っていて、何となれば「低能先生」は、ちゃんとツールとしてのネットの向こうにいる人間を意識したからこその逆恨みなのだから、それはもう対人感のコミュニケの問題であって、ネットがどうしたこうしたの問題ではないと言う話に落着するし、それは一般的な概念としての「他者攻撃癖」とは質が異なる。

確かに「低能先生」は粘着質の荒らしであったようだ。しかしながら、彼自身を「粘着荒らし」であったと断定できるのは、実際に被害に遭った人がその執拗さと謂れの無さと言う材料を以ってのみ可能なことであって、はてなムラの外の人間がその部分をとやかく論じることは不実だ。だから、可能性として「低能先生」は自分が荒らしであると思われていること自体にすでに憤っていて、その肥大化する自己愛の沼から誰も引きずり出さなかったどころか、寄って集って完全に沈めてしまおうとしていた、と認識していた可能性も否定はできない。

従って、本件にて引用させていただいた記事のタイトルはミスリードを誘発しやすく、単に「あなたの隣に殺人者がいるかもよ!」と徒に不安を煽ることになりかねない。タイトルを付けたのは筆者ではなく編集サイドなのかも知れないが。で、本質はそこではない。最終的に殺人事件を起こすまで他人を追い込むやつらが「隣にいる」可能性に対して言及されなければ、ネット社会はただただ夜警国家よろしく他人の発言を監視し、気に入らない発言となれば魚拓を取ってTLに放流すると言った行為の危険性を履き違える。

現代はネット社会の「夜明け前」だ。夜明け前が、一番昏い。悲劇は起こらなければただのシナリオだが、起きてしまえばカタストロフである。この現代、一番昏い今だからこそ。

我々は、目を閉ざしてはいけない。

Hagex氏こと岡本顕一郎さんに、謹んで哀悼の意を捧げます。



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