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第4回 ライターとして一生後悔すること

 勉強会の帰路、思わずスキップしてしまいそうになるほど、私の心は弾んでいました。

 水藤五朗さんの話を聞くことができれば、鶴田櫻玉の演奏活動や水藤錦穣の人生、錦琵琶、大正以降の琵琶界について、貴重な情報を入手できるのは明らか。しかも、それらを本に書き記して、いまの若い世代に正しく伝えることが、水藤五朗さんの望みでもあったのです。

 聴きたいことは山ほどありました。しかし、勉強会の直後から、私はライターとしての日々の仕事に忙殺されます。
 水藤五朗さんの「いつでもいらっしゃい」という言葉に甘えて、「いまの仕事が落ち着いて、じっくり取り組む余裕ができたら、会いにいこう」と自分に言い聞かせながら、生活費を稼ぐための仕事にかまけ、一日また一日と取材を先に伸ばしていました。

 やっと一息ついたのは、水藤五朗さんに会ってから1か月後、6月も終わりにさしかかった梅雨の日の午後。私は取材日を決めるべく、名刺に書かれていた水藤五朗さんの自宅の番号に電話をかけました。

〈これでやっと本を完成させることができる〉
 そんな期待は完全に裏切られます。

 何度かの呼び出し音のあと「はい、水藤です」と若い男性が出ました。
〈たぶん、忙しい水藤五朗さんの代わりに、お弟子さんが電話に出られたのだろう〉
 そう思った私が、1か月前、水藤五朗さんに取材協力の約束をもらえたので電話しましたと告げると、若い男性は「どのような内容の取材ですか」と訊ねてきます。
〈ずいぶんガードが堅いな〉と思いながら、勉強会の日に水藤五朗さんにしたのと同じ説明をしました。相手の対応の硬さに不安を覚えた私は、とりわけ「水藤先生は『喜んでお話しします』と言ってくださいました」という話を強調しました。

 若い男性はやっと納得したのか、「あぁ、そうなんですか」と口調を和らげます。
 私もほっとして、「えぇ、そうなんです」と緊張を解きました。

 すると、若い男性は悲しげな声で、
「そういうことでしたら、父もきっと喜んでお話ししたでしょうね」
〈なんだ、息子さんだったのか〉という安堵と同時に〈なんで「話したでしょうね」なんて過去形を使うんだ?〉という疑問を感じました。

 彼は優しい声で私に、
「新聞でお読みになりませんでしたか。父は一昨日の土曜日に亡くなりました」

 混乱のあまり、頭は真っ白。
 どう答えればいいのか分からず、私は言葉にならない呻きを送話口で洩らしました。
 そんな大切なことも知らずに、脳天気にも取材の申し込みの電話をかけていました。

 私は短い呼吸を重ねて、どうにか落ち着きを取り戻すと、お通夜の準備でご多忙中にお邪魔してしまったことを謝罪して、急ぎ電話を切りました。

 それから1、2分は、意味もなく視線を泳がせ、部屋の中をうろうろ歩き回るだけ。
〈どうしよう、水藤五郎さんからお話を聞けなくなってしまった〉
 頭に浮かんだのは「貴重な情報が手に入る機会を逃した」という強烈な後悔です。
〈諦めちゃだめだ。これまでもいろんなピンチがあったけど、そのたびに乗り越えてきた。まだ何か、打つ手があるはず……〉
 ふと、1か月前の勉強会での水藤五朗さんとの会話が蘇りました。

 あのとき、私は自己紹介をすませたあと、水藤五朗さんに1枚の写真を差し出しました。
「これは4年前、江島神社奉納琵琶祭で、奥様の水藤桜子さんが『祈晴天』を演奏されたとき、私が撮影した写真です」
 水藤五朗さんは「あぁ、あのときの……」と少し驚いたようす。
 私が「すぐにお渡ししなければと思ったのですが、チャンスがなかったので」とお詫びすると、水藤五朗さんは写真から視線を上げて、
「ほんとに……女性の写真を何年も経ってから持ってくるなんて、私はいいですけれど、ワイフに失礼ですよ」
 優しい口調で私を諭されました。その言葉を聞いて「このひとは奥さんを心から愛してるんだろうなぁ」と思いました。

 私は急に焦り始めました。
〈もし水藤五朗さんが夫婦2人で生活されていて、傷心の奥様をさっきの息子さんが自分の家に連れ帰ったら、この電話番号ではもう二度と連絡がつかなくなる。そのときは完全に水藤錦穣や弟子の鶴田桜玉についての話が聞けなくなってしまう〉
 すぐに電話に取りつき、同じ番号を押しました。水藤五朗さんのご子息が出られたら、とにかく連絡先だけ聞くつもりでした。

 この二度目の電話で、私は自分の浅ましさと愚かさを思い知らされることになります。

19日(金)の第5回につづく

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