無能男閑話

 フリーターとは気楽なもので、とはよく言ったものだ。バイト先を転々としながら泥のように低迷した毎日を千鳥足に過ごす。軽業師もびっくりの足さばきで生き、そして裏路地に入りうずくまる。吐瀉物に足元を汚されながら最低な1日だったなんて回想には入らなくてよいだろう。ただ吐いた。電車で酔った。それからしばらくの間うずくまったままの姿勢でいて、俺はダメな人間だ!という慰めを何度も繰り返し心で唱えた。縒れた白ティーを無意味に掴んでは伸ばした。
 天気は晴れ。いや、やや曇り気味?心の中は灰色曇天。転機は六月雨。黒混じりの不精な銀髪に対して紳士服の男が傘を差す。雨は吐瀉物を薄伸ばしにマンホールへ吸い込まれた。
 平日昼時の疎らな車内に紳士服の男は点々とある空席の中で俺の斜め前を選び腰をかけた。わざわざ出入口から遠い連結部付近の通路側に座る俺の足をまたいで、回転したまま対面になっている座席を指定したのである。
 初対面で膝を付き合わせる勇気が無い俺は目を伏せながら席を変えようかと肘掛にもたれかかると「おひとりですか?」と話かけられた。人の親切を無下には出来ないという性格だから、幼い頃から人に親切にしなさいと、親切にされたら親切を返しなさいと教育を受けていた俺はその根っからの信条に則り、他意無く紳士服の男の視線を受け、そして愛想笑いをした。
 そして10分で着くはずの目的地を愛想笑いで逃しながら電車酔いに席を立ったのがさっき。そして少し相合傘の後、雨止みを待つためカラオケボックスに入った。
「はい。フライドポテトと唐揚げ。追加は以上で」
 紳士服の男は備え付け電話の受話器を肩と頬で挟みながらメニュー表をめくりフロントに注文した。
「君は何か頼む?」
「だいじょぶす」
 肩も足も恐縮しつつの短い返答に紳士服の男はメニュー表を押し広げる。
「ここは昔からあるカラオケボックスでね、人通りが少なく駅に近い故に私は重宝しているんだ。しかし古いと侮るなかれ。メニュー数は他店に劣るが味は1級品だ。バブル期に建てられたのだから狭さも1級品だがね」
 直角に曲がった4人がけのソファ、その1番奥側でペプシの入ったプラコップを呷る。
「いやはや、すまないね。烏龍茶とカルピスソーダを混ぜた方が良かったよね。初対面だとまずひとボケだもんね。失敬失敬。ちなみに、食材の組み合わせによって別の食べ物を想起させる遊びがあるのは知ってる?プリンと醤油でウニとかが有名なんだけど。あれの総称はキッチュと言ってね、ドイツ語なんだけど。意味は模造品。いいネーミングセンスだよね。1度発音してみてはどう?」
「え、き、きっちゅ、ですか」
「どうだろう。もう少し唇を突き出してTの発音もしっかりした方がいいね。キッチュ。口に馴染むまで繰り返すといいよ」
「き、キッチュ」
 ロンドンジェントルは首を縦にふりながら耳を澄ませるように目を閉じて相槌を打つ。
「キッチュ」
 ロンドンジェントルはさながらコンサートホールでオーケストラの微細な技術に酔いしれるように静かに拍手をする。
「キッチュ!」
「いやあ、上手い上手い!初めてとは思えない」
「キッチュ!!」
 狭いカラオケボックスに成人男性が唇を突き出しながらキッチュと連呼しそれを褒め囃しながら聞くというシチュエーション。客観的にキモい。やっている身からしてもキツイ。
「まあ、嘘ですがね」
 初対面にも関わらず平気でこんな嘘を吐く胆力に腹が立つ。
「そういえば名乗っていませんでした。私、池内と言います」
 西欧風な見た目から、全然池内顔じゃ無いなとだけ思った。
「あなたは?」
「エドワード・C・ブラッド」
 少しの溜めの後に名乗った名前は紳士服の男の片眉を軽く吊り上げるだけに終わった。
 ペプシコーラが尽きる頃、紳士服の男は不意にステッキを手に取り立ち上がった。
「おやおや、注文した食事が来たようですね。ところで実は、私は野暮用を思い出しましたので席を外します。それではエドワードさん」
 紳士服の男はハットを胸に当てると、入ってきた従業員と共に出て行き、残ったのは俺と紳士服の男が頼んだフライドポテトと唐揚げと、伝票。伝票?あれ?なんで伝票?カラオケボックスに連れられてペプシ飲んだだけなのにあいつの分も俺が払うの?なんで?紳士と名乗っている訳でも振舞っている訳でもない。だが最低でも割り勘だろ!
 ニンニクの効いた唐揚げを無咀嚼で飲み込み、フライドポテトを束で口に突っ込む。突っ込みすぎてむせた拍子に机に膝を打ち付け伝票が落ちる。同時に挟まれた紙の束が目に映る。紙幣が目に映る。紙幣。つまり日本銀行券。
「1万円じゃねーか!」
 これにより次の行動が決まった。というか戻った。2時間きっちり歌いきり支払いを終えてくぐる扉は電飾豊かなパチンコ店。
「それじゃ今日もしっかり働きますか」
「パチ屋の前でそのセリフを言う人、今の時代に初めて見たよ」
 意気揚々と稼ぎに繰り出す俺を引き止める女性が1人。歳の程は20後半。1000円もしないような安い折りたたみ机に中途半端な長さのクロスを敷き六角形か八角形の木の棒をジャラジャラと鳴らしていた如何にもな風体の占い師。
「今日は何かいい事あったって顔してるね。だけどいい事があったってことは悪い事も直列繋ぎで起こるものなんだぜ?」
「人にいい事があったその直後に悪い事を匂わせるなんて、清めの壺を買ってくださいって言っているようなものじゃん。誰が付き合うかよ」
「あんた無職だろ」
 なるほど。その眼光、その洞察力。相当名のある占い師とみた。これは聞く価値がありそうだ。
「しかし何故俺が無職だと?」
「それは当然、占い師として占った結果あんたが無職の星だったからだぜ」
「無職の星?」
「無職の星は存在する!職が無いと書いて無職だが、本来の無職は意味が違う。無職の本来の意味は産まれ持った使命を授からなかった事にある。受験の時、どの学校に行こうか悩んだことは無いか?就職の時、自分に一体どんな仕事が合っているのか、もしや自分が遂行できる仕事なんて無いんだろうかと思った事は無いか?進んだ道で無力感に苛まれた事は無いか?それはつまり、それこそが、あんたが無職の星の人間だという証だ。そしてあんたは無職の王になる素質がある!」
「なるほど。言っている意味は分からない。だけど何だか正しい気がする!」
「多くの人に当てはまりそうな言葉で惑わせるのが占いですからね。エドワードさん」
 俺が無職の星の王にでもなろうとしているところに冷水を浴びせるのは先程野暮用で帰った紳士服の男だった。
「今回はバーナム効果というより、平日昼過ぎにパチンコ店に入ろうとする身軽な服装の若い男性は学生か無職だと思って賭けに出たのが真相ですかね」
 紳士服の男の視線に合わせて占い師を見ると既に片付けを終えて路地に入る所だった。紳士服の男が占い師を大股で追いかけ路地に入るところを見送ると俺は反対方向に歩きだした。
 こんな変人どもに付き合ってられるか。
 そうして歩き出したのも束の間、すぐに吐き気を催し先ほどと同じように路地にしゃがみ込む。カラオケで飲んだジュースや食べ物の混ざりが未消化でしつこく吐き出される。酒も飲んでいないのに、この異様な吐き気は止む素振りを見せなかった。
「吸血酔いですよ。吸血鬼になってすぐは身体の端々が調整を繰り返していますから」
 人間の男は先程と同じように俺の後ろに立ち、傘の先端を後頭部に当てた。つんのめって吐瀉物を叩いた指先に血が集まり血管が浮き出る。全ての歯が口の中で膨らんで口が自然と開いてしまう。
「だらしない手、だらしない口、だらしない格好。哀れにも獣になってしまった君に最低限の尊厳を残してあげましょう。そのための私なのだから」
 エドワード・C・ブラッドは脳漿を撒き散らして絶命した。
 そしてこんな簡素なエンドロールに俺は思う訳だ。
 閑話休題と。

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