駄文

 自分の最も古い記憶は、微かに、頭の片隅にあるのだけれど、母方の祖父母の庭で、落ちている石を口にパンパンに含んでいる所だった。しかし思い出す記憶は第三者視点で、とても僕がその当時、そうあるようには動いていないのだから、捏造の可能性が高い。もちろん幼い頃に石を食べていたことは言うまでもない。
 ここで全く関係ないが、ルース・ベネディクトの『レイシズム』について説明しよう。本書は人類学者のルース・ベネディクトという女性が書き記した本であるが、読む必要はないが阿部大樹訳のあらすじを記すと、

 「人種」とは何か。レイシズムに根拠はあるのか。ナチスが台頭する1940年代、アメリカの文化人類学者が鋭く問いかけた。純粋な人種や民族などは存在しないことを明らかにし、国家、言語、遺伝、さらに文化による人間集団に優劣があると宣言するレイシストたちの迷妄を糾す。日本人論の古典『菊と刀』の著者が鳴らした警鐘は、現代の世界に響く。

とある。要すると「人種差別は論理的に有り得ない」ということができるだろう。前段に戻って、最古の記憶というのは程度に差こそあれど自らの出自に深く関わっている。人種は存在するが人種差別は存在しない(有り得ない)というのは、僕にとって興味深い主張だった。別にレイシストの論拠に賛同する訳ではないが、「人種が有り得るのであれば人種差別も有り得るのでは?」という問いである。これは本書を読めば分かる通り、人種に優劣が無いという主張だろうが、では、文化は人種に吸収されないのだろうか?文化に優劣は無いのだろうか?
 この問いは非常に重い。何が重いのかといえば、腰が重い。文化の優劣は僕としても、「無い」と断言しよう。それは様々なパラメータからして当然といえる。だが、文化のある点を比較した時に、「自分の文化の方が好きだ」という感想は優劣に含まれないのだろうか。逆説的に、「相手の文化の方が好きだな」という主張は「相手の文化の方が優れている」と言い換えられないのか。またこれも決まりきった答えだが、言い換えられない。パラメータを絞り、評価基準を絞る時にそれは恣意的でとてもじゃないが使えない。では、美白ブームはどう説明しようか。視力の悪いのをどう説明しようか。習得に時間のかかる全く使えないプログラム言語をどう説明しようか。そこには確実に文化の優劣が存在する。そして文化内差別も存在する。
 どこまでを『文化』とするか、その文化に従う人間が多ければ尊重せねばなるまい。しかしそこに優劣が存在しないとは言えない。それは新しい''マナー''を作る講師と相対した時、どのような言葉を向ければ良いのだろうか。
 マナーは非常に重い。自分が従いたくないマナーへの対応は至極簡単で、「相手のマナーを否定をしないが、自らそれに準ずることは無い」である。しかし郷に入れば郷に従えとの言葉がある通り、自分を折ってまで従う必要のある場面もある。人を巻き込むマナーを拒絶することは、相手を拒絶することではないか。マナーという言葉を冠する場合はまだいい。例えば、手を洗う時は石鹸を使うだとか、家に帰ったら必ず足を洗うだとか、衛生的に優れているものを優劣抜きに語って良いのだろうか。犬を食べる。鳩を食べる。鯨を食べる。それぞれ優劣を抜きに語れるだろうか。
 「犬を食べる人が嫌い」となれば、その文化圏の人間全てを嫌うことになり、ひいては人種を嫌う事になる。それはレイシズムでは無いのか。その文化抜きに相手を評価したとて、その色眼鏡で相手を見ることは文化を軽視する事では無いのか。人間は難しい。

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